ウィンチェスター M1 “M1カービン” / Winchester “M1 Carbine” 【自動小銃】 †
第二次大戦初頭、将校や後方部隊の護身用としてウィンチェスター社が開発したセミオートマチックカービン。1941年にアメリカ陸軍に採用され、1964年まで生産された。その設計コンセプトは後のアサルトライフルやPDWにも通じる物があった。
当時、第一次大戦の戦訓から、機械化部隊による戦闘の高速化によって後方部隊が直接戦闘にさらされるリスクが増加した一方、後方部隊の装備する小火器の貧弱さが問題となった。そこで、主力ライフルのM1ガーランドよりも軽く取り回しやすい、そこそこの火力を有する軽量なライフル(ないしカービン)の開発がアメリカ陸軍内で提唱された。
1940年、第二次大戦勃発を契機に計画がスタートし、翌年にはコルトやスプリングフィールドを含む9社によって試作されたライフルでトライアルが行われたものの、芳しい結果とはならなかった。そんな折、ウィンチェスター社が開発中だった試作ライフルが、陸軍関係者の働きかけによってトライアルに加えられた。ウィンチェスターの.30-06M2試作ライフルは元々主力ライフルを目指して開発されていたものだったが、その高い完成度に当局がほれ込んだのだった。
結果として、.30-06弾仕様から、新型の軽量ライフル用.30カービン弾に再設計されたウィンチェスターの試作ライフルがトライアルに勝利し、1941年に"M1カービン"として制式採用された。
バリエーションとして、金属製フォールディングストックを装備したM1A1、セミ/フル切り替え可能なセレクティブファイアモデルM2、M2をベースにフォアグリップや赤外線暗視装置を装備した夜戦仕様のM3が存在する。
第二次世界大戦中に製造されたほとんどのM1にバヨネットラグ付バレルバンドは付けられていなかったが、大戦末期には現場の要望でバヨネットラグ付きバレルバンドが製造されるようになった。
その後も朝鮮戦争やベトナム戦争にも投入されたが、こうしたより広く過酷な戦闘環境では威力・射程の不足が顕著になり、より洗練された軽量弾である5.56mm×45弾を用いるM16等へと代替されていった。
戦後、余剰化した本銃の多くはM1ガーランドなどの他の兵器と共に、Military Assistance Program(軍事援助計画)に基づき、日本の警察予備隊(後の自衛隊)を含む、多くの西側諸国の軍隊に供与された。また、日本の豊和工業は当時自衛隊で使用されていたM1カービンのライセンス生産を行っており、M1カービンを狩猟用とした豊和M300(ホーワカービン)を民間に販売もしていた。そのため日本の作品にも登場することが多い銃である。
アメリカでは現在オートオードナンス社が生産を行っている。
一方でM1カービンないしその民間型は武装勢力や犯罪者の手にも渡り、歴史にも残る凄惨な事件で使用されたケースもあった。
キューバ革命においても革命軍で本銃は使用され、1958年にチェ・ゲバラがM2カービンで武装する写真も撮影されている。
1965年に日本で発生した少年ライフル魔事件では、犯人の少年が立て篭もった鉄砲店で奪った銃のうちの一挺が豊和M300であり、これに30連マガジンを装着して使用された。これを受け、日本では以後ライフルの装弾数を5発までとする法が制定された。
1982年には韓国の警官であった禹範坤(ウ・ポムゴン)が、警察署の武器庫からM2カービンと実弾、手榴弾を持ち出し、当時世界最多の大量殺人事件を引き起こした。
モデル | 解説 |
M1 | 初期型。下士官及び後方部隊などに配備された。約650万挺製造された。 |
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M1A1 | 空挺部隊向けで1942年より量産開始。インランド社による設計で、ストックをグリップと分けて折畳式ワイヤー型に改めている。約15万挺製造された。 |
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M1A2 | M1A1とは別に他社で提案された。計画のみ。 |
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M1A3 | パンタグラフ型という折畳銃床を採用したモデル。M1A1の後継として計画されたが量産には至らなかった。 |
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M2 | セミ/フル切り替え可能とし、30発の箱型弾倉を用意したモデル。約60万挺製造されたが、第二次世界大戦中に部隊配備されることはなかった。 |
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M3 | M2に夜間暗視装置を装着したモデル。 |
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