ベルグマン MP18 / Bergmann MP18【短機関銃】 †
モデル | 全長 | 重量 | 口径 | 装弾数 | 連射速度 | 発射形式 | 製造国 |
MP18 | 818mm | 4.35kg | 9mm×19 | 8/20/32 | 約400発/分 | F | 帝政ドイツ |
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MP28 | 813mm | 4.0kg | 9mm×19 | 20/32 | 約450発/分 | S/F | ドイツ |
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MP34 | 850mm | 4.25kg | 7.63mm×25 9mm×19 9mm×23 Steyr 9mm×25 Mauser .45 ACP | 20/32 | 約500発/分 | S/F | オーストリア |
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第一次世界大戦末期に帝政ドイツ軍が採用した、世界初*1の短機関銃。
第一次世界大戦中のヨーロッパ戦線では、塹壕戦の膠着状態を打開するため、各国が戦車など数々の新兵器を戦線に投入し、しのぎを削っていた。その中でドイツが着目したのが、狭い塹壕内でも取り回しが良く、接近戦に強い『短機関銃』だった。
軍はベルグマン社にこの新兵器の開発を依頼。同社の社長テオドール・ベルグマンとルイス、ヒューゴのシュマイザー親子、およびオットー・ブラウスベッターら研究チームによって、1917年に完成したのがこの『MP18短機関銃』だった。
作動はオープンボルト式のストレートブローバック。のちのMP5が登場するまでの短機関銃の基本的なメカニズムを、MP18はこのとき既に備えていた。当時としてはスタンダードな木製のストックでレシーバーを支え、マガジンはその左側面から装填する構成とされた。マガジンはP08のものが共用可能で、32発装弾のスネイルマガジンも使用できた。
完成したMP18は、1918年3月21日の大攻勢『ミカエル作戦』に投入される。大火力のMP18と手榴弾、ガスマスク*2で武装した『シュツルム・トルッペ(突撃部隊)*3』の猛威は連合軍を震え上がらせ、一時は戦線を60kmも突破することに成功した。
しかし、結局『ミカエル作戦』は失敗。MP18は戦後全てが軍から払い下げられて、もっぱら警察用として使用されることとなった。*4
こうして第一次世界大戦で猛威を振るったMP18は、「短機関銃」というジャンルを確立し、他国の兵器開発に大きな影響を与えた。1920年には、スイスのシグがMP18のコピーモデル『シグM1920』をライセンス生産し、日本へも輸出が行われていた。また、これとは別に本家MP18も日本に輸入されており、後述のMP28、MP34と共に当時の日本陸軍で『ベルグマン自動短銃』、海軍で『べ式自動拳銃』の名で使用された。後の『一〇〇式機関短銃』が試作された際にも、MP18が参考とされている。
MP18は、後にハーネル社に移籍したヒューゴ・シュマイザーの手で改良を受け、ダブルカラムマガジンやセレクティブファイア(セミ・フル切り替え)機構を組み込んだ『ハーネルMP28』として復活。再軍備後のドイツ軍に採用され、スペイン内戦などに投入された。
もう一つの主要なバリエーションであるMP34については、やや複雑な背景がある。元々はMP18を基本にスイスのゾロターン社が設計したモデルだが、ゾロターンは一種の「ダミー会社」で、背後にはドイツのラインメタル社が控えていた。これはベルサイユ条約で再軍備を禁じられたドイツが、いわば「抜け道」として利用した格好だった。
その後、製造権はオーストリアのステアー社に売却され、1930年、オーストリア警察にMP30として採用。ドイツにも輸出されMP34として制式化。ナチス・ドイツによるオーストリア併合後も製造は継続された。ポルトガル、南米諸国、中華民国などにも輸出され、南米、ポルトガル向けには.45ACP、中国向けには7.63mm×25仕様も製造された。
MP28、MP34もまた日本に輸出されており、陸軍だけでなく海軍陸戦隊でも採用された。陸軍ではMP18共々ベルグマン自動短銃と呼称し、海軍ではMP28をMP18と同じくベ式自動拳銃、MP34を『ス式自動拳銃*5』として使用した。これらの多くは7.63mm×25仕様で、当時の日本軍の例にならい、着剣装置も追加されていたという。
なお、本家ベルグマンの発展型・MP35の初期型も『MP34』と呼称されており、注意が必要である。ベルグマンMP35は、MP18やMP34と異なり、マガジンハウジングが銃の右側にある点で識別できる。
元祖MP18はその後、初期のナチス突撃隊・親衛隊に使用されたほか、第二次世界大戦初期にはMP38とMP40の配備が遅れたため、MP28やMP34と共に、第一線の部隊で使用された。
その後は予備兵器扱いとなったが、戦況悪化に伴い大戦末期には国民突撃隊によってベルリン攻防戦に用いられているなど、第一次・二次両大戦を戦い抜いた。
総生産数は約3万5千挺だった。
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