武装親衛隊 / Waffenschutzstaffel †
武装親衛隊とはナチス政権下のドイツで組織された準軍事組織。初期には親衛隊(SS)の傘下であったが、後に独立した同等の組織となった。Waffen(ヴァフェン)-SSや武装SSとも略される。
これはヒトラーが国家唯一の兵器の保有・携帯を許される組織である陸軍の反逆から、あるいは国内の騒擾から自身を守らせるために設けた党もしくはヒトラー個人の私兵である*1。
武装親衛隊は政治的に信頼できる親衛隊員から成る武装組織で、ドイツ国防軍のような国家の軍隊ではなく、国防大臣を通さずヒトラーが直接指示を下せる準軍事組織である。その前身は身辺警護を行っていた一般親衛隊から1933年にヨーゼフ・ディートリッヒが指揮するヒトラー個人の警護部隊と、1935年、パウル・ハウサーがSS-VT*2を編成させたことに始まる。
ヒトラーはこの法的に許可された「自衛組織」を単なる私兵にとどまらず、軍よりも忠実な実行部隊として海外にも派兵することを検討していたが、自動的に徴兵が行われる陸海空三軍と異なり志願によって兵士を募る必要があったため、その構成は困難を極めた。
ヒトラーは愛国心を煽るプロパガンダなどによって志願者を増やしたが、これは三軍の徴兵数を減らす結果となり軍との軋轢を生んだ。このため、初期にはドイツ出身者に限定されていた志願資格は大幅に緩和され、オランダ、ベルギーなどナチスドイツの占領地域から多く志願者を募ることで軍部との軋轢は解消された。最終的に90万人規模に到達した武装親衛隊のうち、約60%は外国人によって構成されており、更にそれに加えて非法規的な外国人義勇兵も多く従えていた。
「親衛隊」という名称から歩兵的な印象が強いが、実際にはパンターなどの戦車を保有する大規模な師団を複数抱えており、装備品・戦闘能力に関しては陸軍そのものであった。
当然上述のような無秩序かつプロパガンダ的に集められた人員は非常に無規律なもので、たびたび指示を逸脱した違法行為を繰り返したため、その悪名は各地で恐れられるものとなっていた。しかし一方で、多く集められたドイツ国内や占領地域のいわゆる「非エリート」系の劣等感を抱えていた層の士気は非常に高く、構成員の半数以上が死傷で入れ替わりながらも高い戦力を発揮。連合軍上陸作戦を阻止するなど多くの戦果を挙げた。
フランス・オラドゥール村における住民虐殺事件、「バルジの戦い」の際のベルギー・マルメディ村における捕虜虐殺事件などを始めとする多くの戦争犯罪に加担しており、両事件とも訴追された武装SS隊員は最終的にはいずれも不起訴、もしくは恩赦により釈放されているが、マルメディ事件の首謀者とされたヨアヒム・パイパーは、潜伏先のフランスで自宅に火炎瓶を投げ込まれ焼死している。
装備品(火器) †
主な部隊 †
部隊番号 | 部隊名 |
第1SS装甲師団 | ライプシュタンダーテSSアドルフ・ヒトラー*3 |
第2SS装甲師団 | ダス・ライヒ |
第3SS装甲師団 | テータンコプフ |
第5SS装甲師団 | ヴィーキング |
第12SS装甲師団 | ヒトラーユーゲント |
- ■在籍/出身の人物(実在)
- P・ハウサー(SS上級大将)
- J・ディートリヒ(SS上級大将)
- F・シュタイナー(SS大将)
- K・マイヤー(SS少将)
- W・モーンケ(SS少将)
- J・バイパー(SS大佐)
- O・スコルツェニー(SS大佐)
- M・ヴィットマン(SS大尉)
- E・バルクマン(SS曹長)
など著名人多数
- ■在籍/出身の人物(架空)
- 少佐(ヘルシング)