US M1917 エンフィールド【小銃】 †
全長 | 銃身長 | 重量 | 口径 | 装弾数 | 製造国 |
1,176mm | 660mm | 4.17kg | .30-06 | 6 | アメリカ |
M1917はイギリスで設計され、アメリカで製造されたボルトアクション小銃である。俗称として「P17」、「USエンフィールド」などと呼ばれることもある。第一次世界大戦でアメリカ軍の準制式ライフルとして活躍した。
M1917の源流は1910年、ボーア戦争後のイギリスに遡る。イギリス軍はボーア戦争でトランスヴァール軍やオレンジ軍の装備していた7mmマウザー(おそらくM1895)に苦戦した経験から、.303口径に代わる.276口径の新型小銃を求めていた。エンフィールド造兵廠とBSA(ベサ、バーミンガム・スモールアームズ)で試作が行われた結果、エンフィールド製が“P13”として仮採用され、1913年に実地試験を行うことになった。試験の結果、.276口径弾は大幅な改修が必要とされたが、P13自体には特に問題がなく、銃床やボルトノブの形状に少々の変更が行われるにとどまった。
P13の開発が進んでいた矢先の1914年、第一次世界大戦が勃発。イギリスも参戦することが決まり、既存の火器増産のため.276口径弾の開発は中止、P13は急遽.303口径に改修され“P14”として同年10月にイギリス軍制式装備に編入されることになる。国内の生産設備はすべてリー・エンフィールドMk.IIIの生産に当てられていたため、P14の生産はアメリカの企業に委託された。製造にはウィンチェスター、レミントン、エディーストーン(レミントン傘下のライフル工場)が当たり、Mk.IIIの供給が軌道に乗る1917年まで続けられた。
1917年にはアメリカもドイツに宣戦布告し参戦することとなったが、当初はイギリス同様小銃が不足していた。当時アメリカ軍は60万挺のM1903と14万挺のクラッグ小銃を保持し、1日につき約1400挺のM1903を生産していたが、それでも要求数には遠かったため、アメリカ国内でイギリス軍向けに生産されていたP14に目をつけた。.303口径のP14をそのまま使用することは補給などの面からはばかられたため、アメリカ軍制式の.30-06口径仕様に改設計を行い、生産されることとなった。
元々製造を担っていたウィンチェスター、レミントン、エディーストーンによる評価試験用の試作品では、3社製品それぞれにパーツの互換性がないことが問題となったが、標準製造図面を配布し、最終的に95%の互換性を実現することで承認され、生産が開始された。第一次大戦中の総生産数はM1903の312,878挺を越える2,193,429挺が生産された。
作動はモーゼル式のコントロールドフィード。モーゼルのアクション自体は現代のボルトアクション小銃にも広く用いられている方式だが、リー・エンフィールドやロシアのモシンナガンと同じコックオンクロージングというコッキング方式を採用しているのが特徴である。これはボルトハンドルを引き上げる操作で撃針がコックされるモーゼルのコックオンオープニングと違い、ボルトを前進させたときに撃針がシアーにかかってコックされる方式。利点としては、連射で銃が過熱した状態であっても排夾が比較的スムーズな点がある。ハンドルそばにはセイフティが備えられ、手前に倒すと撃針とボルトをロックする仕組みだった。ちなみに後方に屈曲したボルトハンドルは「犬の足」と呼ばれた。
内蔵固定のマガジンの装弾数は6発だが、クリップはM1903用の5連発で統一された関係で、リロードのたび6発フル装填して用いられることはなかった。
アイアンサイトは、サイドガード付きのフロントサイトと、ピープ式の可倒式リーフサイトで構成されている。ウィンテージ(左右)の調整こそ出来なかったが、リーフサイトを倒している際は400ヤード、起立させている際は200〜1,600ヤードの間で調整することができた。また、バヨネットラグも備え付けられていたが、M1903に用いられていたM1905銃剣ではなく、新型のM1917銃剣を装備した。M1917銃剣はM1903に装着できないが、M1897トレンチガンには共用できた。ちなみに、このバヨネットラグ付近の金具は、叉銃用のフックである。
M1917の構造的弱点としては、エジェクターが脆弱だったことが有名である。
M1917は、アメリカ軍準制式ライフルとしてM1903と共にヨーロッパ戦線で活躍した。第一次大戦における最も有名なアメリカ陸軍兵士、アルヴァン・C・ヨーク軍曹もこれを用いて戦ったとされており*1、一時北アフリカに駐留していた部隊ではその75%にM1917が装備されていたということもあった。大戦中の生産数でみれば実質的な主力ライフルとなっており、むしろM1903のほうを準制式装備にしたほうが良いのではないかという議論すらあがったほどだったが、民間生産品であることや、サイト調節機能が限定的であることなどから、結局M1903が制式小銃として居残ることになった。
第一次大戦終結後、本国に帰還した大量のM1917は整備と再仕上げの後、ROTC(予備役将校訓練課程)や州軍などに限定的に配備されたが、殆どは予備兵器として保管された。そのうち20,000挺程は1920年代にメキシコへ、1930年代後半には300,000挺程がフィリピンへ売却された。
そんな折、1939年に第二次世界大戦が勃発。再び軍用銃の供給に問題が生じたため、またもM1917が駆り出されることになる。1942年5月の時点ではロックアイランド造兵廠で50,000挺の再整備が行なわれたが、後に銃身の不足が問題になり、ロックアイランド造兵廠やハイスタンダードアームズ、ジョンソンライフルの製造を行なっていたジョンソン・オートマティクス等で新品が製造されることになった。第二次大戦中のM1917は主に国内での予備役用に用いられ、レンドリースによってイギリス、フィリピン、中国などに相当数が送られた。前線にも少数が送られたようだが、M1903やM1ガーランドの供給が安定するに従い、引き上げられていった。そして戦後、1945年10月3日にM1917は米軍から退役し、DCM*2を通して全米ライフル協会に売却された。
M1917のバリエーションには、フルアジャスタブルサイトを装備したモデルや、2.7倍のM1918スコープを装備した狙撃銃モデル等が開発され、第一次大戦中にはぺダーセン・デバイスを装着可能なように改造されたモデルも開発された。とはいえ、どれもごくごく少数しか生産されなかった。
コマーシャルモデルとしては、レミントンにて1921年に開発された“Model30”や、1941年に開発された“Model720”等が存在する。Model720はM1917系小銃における最高峰との呼び声もあったが、太平洋戦争勃発に際して早々に生産が打ち切られてしまった。
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