ジョンソン M1941自動小銃 / Johnson M1941 【自動小銃】 †
アメリカ海兵隊の予備役大尉で弁護士だったメルヴィン・メイナード・ジョンソンJrによって、1938年中頃に開発された軍用自動小銃。ショートリコイル作動という、歩兵用ライフルとしては珍しい機構を採用している。
レシーバー下にはこれまた珍しいロータリー・マガジンを内蔵しており、装弾数10発と当時としてはハイキャパシティを誇った。当時の代表的自動小銃だったガーランド小銃が、クリップ(挿弾子)ごと装弾する構造ゆえ、撃ち切らないと再装填もままならなかったのと違い、ジョンソン自動小銃はいつでも弾薬を補充できたうえ、ボルトを閉じたままでも装填が可能だった。リコイルも30%ほど少なく、トライアルに使用されたテストモデルでは、高い集弾性と命中精度を発揮した。
ジョンソン小銃は開発者自身の手で、アメリカ陸軍に新型主力小銃として売り込まれたが、銃剣を取りつけたときの信頼性が確保できないとして、却下されてしまった。
そもそも、銃身がレシーバーに固定されず発砲時に後座するショートリコイルは、銃剣の装着には向かない構造だった。銃剣をつければ、重みで銃身が後座不良を起こすうえ、銃剣戦闘を行おうものなら、刺突の衝撃で銃身が後座してボルトのロックが解除されてしまうか、最悪銃身が破損する可能性もあったためだ。この問題の解決のため、軽量な専用のスパイク銃剣が用意されたが、ボルトのロックが解除される欠点は解決できなかった。
また、クリップごと一回の装填で手早くフル装弾できたガーランドに対し、ジョンソン小銃は既存のM1903用の5連発ストリッパー・クリップを使う従来の装填方法ゆえ、フル装弾には時間を要し、総合的に見て速射性はいまひとつであった。
そもそも陸軍はすでに、ガーランド小銃の制式配備を始めたばかりで、ガーランドを改めて却下する気も、自前の工場をもっていなかったジョンソンに莫大な設備投資をしてまで、複数の主力自動小銃を混在させる気も無かった。ジョンソンは、本銃の軽機関銃バージョンと共に、売り込んでいたが、米陸軍はいずれも採用しなかった。
ジョンソンは諦めることなく、陸軍の次に同国海兵隊へも本銃を売り込んだ。海兵隊は同朋であるジョンソンの銃のトライアルを熱心に行い、ガーランド小銃やM1903小銃との比較テストで高い射撃性能が発揮されたことを評価した。が、すでにガーランドが大量生産に入っていたこの時期、海兵隊も兵站の混乱を促すような主力自動小銃の二機種化は選択しなかったのである。
販路を閉ざされてしまったかに思えたが、当時日本の侵攻に備え、オランダ領東インド*1の王立東インド軍の増強に奔走していたオランダ亡命政府が目を付けた。ジョンソンの自動小銃は、軽機関銃バージョンと共に「M1941」の名称が与えられ、合わせて約30,000挺近い発注を得ることに成功した。ところが折悪しく、東インド軍は本銃をほとんど手にすることなく、早々に日本軍に降伏してしまい、ジョンソンは完成済みの30,000挺を在庫として抱える羽目になってしまった。
しかし今度は、その在庫に、未だにガーランド小銃が行き渡っていなかった海兵隊が目を付けた。新設のパラマリーンズ(米海兵隊落下傘大隊)用に、在庫の一部を引き取ったのである。ジョンソンの自動小銃は軽機関銃バージョンと共にソロモン戦で実戦に投入された。
本銃は現場の海兵隊員には概ね好評で、容易に銃身を分解・結合できる点も、空挺装備として高く評価された。しかしフィールドストリッピングのさいに細かな部品を紛失してしまうことが多く、部品の補充にも事欠くようになるなど、メンテナンスに問題が多かったことには閉口していたようである。
在庫の一部はOSS(戦略諜報局)にも流れ、ヨーロッパのレジスタンス支援のために、空挺投下もされた。
戦後、残存していたジョンソン自動小銃はオランダに返却されたが、OSSに流れた在庫の一部は倉庫に眠り続けていたようで、1961年キューバのピッグス湾事件で、キューバ亡命人からなる2506旅団に投入されたりもした。
口径バリエーションとして、7×57mm マウザーがある。これは1943年にチリの騎兵隊向けに発注された1,000挺のみだけであった。
動画 †
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