ジョン・モーゼス・ブローニング
John Moses Browning(1855〜1926)

 アメリカの銃火器設計者。
 19世紀後半から20世紀初頭にかけて数々の新機軸を取り入れた革新的な銃火器を多数開発し、現在では一般的となっているオートマチックシステムの基礎を作り上げた。
 彼が開発に携わった銃火器の中には、M1911自動拳銃M2重機関銃などのように今なお世界中の軍や警察機関の制式装備であり続けているものも存在する。

 1855年ユタ準州オグデン生まれ。父ジョナサンは末日聖徒イエス・キリスト教会の信徒で3人の妻がおり、ジョンには21人の兄弟姉妹がいた。
 ジョナサンはガンショップ*1を営んでおり、ジョンも幼い頃から父の店をよく手伝った。
 ジョンは当時すでに父の設計した銃に不満を持っており、修理の仕事の際は父のいない隙を狙って兄弟たちと父の銃を罵って笑いあったという。
 1878年、23歳で父の弟子として働いていた頃に処女作となるライフルを設計。フォーリングブロックアクションの単発式ライフルで、信頼性が高くジョンとしても手応えがあった。
 ジョンは兄弟のうち年が近く仲の良かったマシュー*2と共同でジョン・モーゼス・アンド・マシュー・サンデファー・ブローニング・カンパニー*3を設立して独立し、自身の設計したライフルを量産・販売することにした。

 1883年、ブローニングの設計したライフルが徐々に世に出回り始めていた頃、ウィンチェスター・リピーティング・アームズがその設計の素晴らしさに目をつけた。
 ベネット副社長*4が自らオグデンに乗り込んでブローニング兄弟と直接交渉し、単発式ライフルと開発中のレバーアクションライフルの設計をそれぞれ購入した。
 ウィンチェスターはまず単発式ライフルに小規模な改良を加えたものをM1885として発売した。改良はウィリアム・メイソン*5が担当した。さらにウィンチェスターは併せて購入したレバーアクションライフルの設計もメイソンに仕上げを担当させ、M1886として発売した。
 M1885は当時スポーツとして人気が高まっていたマッチ・シューティングにおいて一躍人気となり、当時のライフル市場を席巻した。また、M1886はそれまでのレバーアクションライフルでは安定した作動が得られなかった大口径弾薬でも安定して作動し、こちらも人気となった。

 ここからウィンチェスターの信頼を得たブローニングは、その後10年以上にわたって同社の銃火器設計を担当するようになる。M1887M1892M1894M1895M1897など、モデルネームからもわかるように非常に短いスパンで新型銃を次々に開発した。
 このうち最も成功したのはM1894といわれ、2006年まで100年以上にわたって生産され、700万丁以上が販売された。
  ジョンの設計した銃は当時の市場で最高レベルの信頼性を持ち、それゆえにより高圧の弾薬を使用できた。黒色火薬に代わって無煙火薬が使用されるようになっても機構に手を加える必要はほぼなく、多くのモデルはヘビーバレルに交換するだけで対応できた。

 1898年、ジョンはロングリコイル式のセミオートショットガンの設計を完成させる。これはいつも通りウィンチェスターに持ち込んだが、このときの交渉はいつもとは違っていた。両者は良好な関係に見えたが、互いに不満を持っていたのだった。
 ウィンチェスター側の不満は、M1897の開発に関してだった。それまでブローニングの設計した銃は非常に信頼性の高い機構を備えていて、ほとんどはバレルの強度を高めるだけで無煙火薬にも対応できた。
 しかし、M1893ショットガンは機構を含む大幅な改修を施さなければならないことが判明し、ウィンチェスターは無煙火薬対応型のM1897として発表するためにブローニングに追加の設計料を支払って改修を依頼しなければならなかった。
 一方、そこにはブローニング側の不満もあった。当時の商慣習では、銃火器製造会社は設計者に対しては発売前に設計料を一括で支払い、販売数に基づくロイヤリティなどは一切支払われなかった。
 ブローニングからすればこれは大きな損失であり、だからこそM1897への改修費用も支払われて当然と考えていた。
 結局ウィンチェスターはブローニングの提案を拒絶し、両者の関係は終わりを迎えてしまう。ブローニングは次にレミントン・アームズ・カンパニーに売り込むが、返事を待っている間に同社のハートリー社長*6が心臓発作で急逝し、交渉どころではなくなってしまった。

 最終的に交渉したベルギーのファブリク ナショナル(FN)ではブローニングの提案が全面的に受け入れられ、新型銃は設計者に敬意を評してその名を冠したブローニング・オート5という名で発表された。
 1890年代、FNは当時最新のマウザー製ライフルを量産する設備を持っていたが、そのマウザーと製造権を巡る法廷闘争に敗れた上にDWM*7に多くの株式を買収されてしまったため、ドイツ向けの軍用武器の輸出市場から排除されてしまっていた。
 そこでFNはブローニングと親交のあったバーグ営業部長*8を派遣し、ブローニングとの契約を取り付けてアメリカ向けの市場を開拓した。

 これに前後して、ジョンは1890年代初頭からオートマチックシステムの開発に力を入れ始めていた。
 1892年にはレバーアクションを変形させガス圧によって動作するスイングピストンという機構の特許を取得し、これを採用した機関銃をコルトの協力を得てコルト・ブローニング・M1895として完成させた。
 さらに、この機構を拳銃に応用したセミオートマチック拳銃を開発し、試作も行った。
 この機構自体にはもはや将来性は感じなかったが、試作品のレイアウトやトリガーなどの機構に手応えを感じたジョンはさらなる開発を進め、1896年に.38口径の自動拳銃の試作機を3つ完成させた。
 そして、そのうちのひとつをコルトに提出し、さらに.32口径にスケールダウンしたものをFNに提出した。
 これがそれぞれコルト M1900およびFN M1900として発表された。また、ジョンはこれらの拳銃のために.32ACP弾と.38ACP弾を開発した。

 1890年代から1900年代にかけて、アメリカ軍は最新式の銃火器を次々に導入していた。コルト M1900も1899年から1900年にかけて行われたトライアルに提出されたが、そのときは7.65mmパラベラム弾のルガー P08が採用された。
 後に米比戦争後のモロ族の残党狩りにおいてストッピングパワーの不足が露呈し、一時的に.45口径のコルト SAAを使用しなければならなかった。
 これを受けてアメリカ軍はトンプソン・ラガード・テスト*9と呼ばれる実験を行い、その結論として新型拳銃は「.45口径以上の半自動拳銃」を要求した。
 これに対し、ジョンはより強力な弾薬を使用できるコルト M1900の機構をさらに改良し、弾薬も.38ACP弾をスケールアップした.45ACP弾を開発。6000発の耐久テストを故障ゼロで耐え抜き、1911年にM1911として制式化された。

 また、1900年にブローニングはリコイルオペレーション式の機関銃を設計し、特許を取得した。アメリカ陸軍は当時機関銃にほとんど関心を示さなかったため、この設計はしばらく世に出ることはなく、その間にジョンは改良を続けていた。
 これに並行してブローニングは1910年に.30-06スプリングフィールド弾を使用する自動小銃も開発していたが、こちらも当初は軍の関心を引くことができなかった。

 1917年に第一次世界大戦が勃発すると、陸軍は配備数も少なく設計も時代遅れの機関銃を更新するためにトライアルを開始。ブローニングはかねてから開発していた機関銃の水冷バージョンを持ち込み、ほぼトラブルなくトライアルを通過した。
 陸軍が「量産型で同じような性能が出せるとは思えない」と主張するとすぐに同じ機関銃をもう1丁用意し、今度は一切のトラブルなく同じ内容のテストを乗り切ってみせた。
 結局この機関銃がブローニングM1917として制式化されたが、製造工程が複雑で量産が間に合わず、第一次世界大戦ではほとんど活躍しなかった。
 また、ブローニングは自動小銃の方も陸軍に持ち込み、公開デモンストレーションを行った。軍や政府の高官も観衆として集まる中、ブローニングの小銃は多くの観衆の支持を得て、その場でUS M1918として制式化が決定された。
 こちらは実際に戦地に送られると兵たちから非常に好評で、海兵隊の第6海兵隊第1大隊のある部隊は陸軍第36師団の「下っ端」と"交渉"し、フランスから購入して装備していたショーシャと交換させたほどだった*10

 列強各国が自国の技術力を戦場に反映させはじめた第一次世界大戦以降、戦車や航空機といった厚い装甲を持つ戦力をいかに打破するかがひとつの焦点として浮き彫りになった。アメリカ遠征軍のパーシング将軍*11はこれらに対抗できる大口径の機関銃を要求した。
 ウィンチェスターはこれに応じて.50BMG弾を開発し、ブローニングはM1917をベースにこの弾薬に対応できるよう改良した新型機関銃の設計を開始した。

 1926年、ベルギーのリエージュにあるFNの設計室でフランス軍から依頼された新型拳銃の設計に取り組んでいる最中、心不全を起こしジョンは死去した。71歳だった。
 この頃に開発に取り組んでいた9mmパラベラム弾用の拳銃と同時発射可能な上下2連式散弾銃は、助手だったサイヴ*12と息子のヴァル*13によって仕上げられ、それぞれFN ハイパワーとブローニング スーパーポーズドとして発表された。
 アメリカ軍向けに開発していた重機関銃はジョンの死後も開発が継続され、ひとつのレシーバーで7種類の仕様に換装できるよう改良されたものがM2重機関銃として制式化された。第二次世界大戦の頃にはアメリカ軍の装備する重機関銃はほぼ全てM2で更新された。
 あまりの完成度の高さからその後何度も更新が計画されたがいずれも頓挫し、今なおM2が制式装備として使用されている。

 ジョンが創設者として設立に携わったブローニング・アームズは、現在はオグデンからやや離れたマウンテングリーンに本社施設を構え、今なおアメリカ有数の銃火器製造社として健在である。
 創立地のオグデンには同社が管理するブローニング・ファイアアームズ・ミュージアムがあり、ジョナサン、ジョン、ヴァル、ブルース*14のブローニング家4世代が設計した銃火器や試作品、実際に使用していた製図台や工作機械など多くの貴重な資料が展示されている。


最新の10件を表示しています。 コメントページを参照

  • 「ブラウニング」何故に歴史的仮名遣い? -- 北側? 2007-04-03 (火) 16:37:32
  • Browningは「ブローニング」ではなく「ブラウニング」に近い発音なので、ブラウニングという表記は妥当かと。むしろ前者の表記に違和感を覚えます。 -- 2007-11-25 (日) 21:43:28
  • どうみても歴史的仮名遣いではないと思われますが… -- 2008-01-04 (金) 11:36:53
  • なんで正しい表記から間違った表記にわざわざ変えてんの? -- ffge? 2011-04-03 (日) 15:33:23
  • 一般に定着しているブローニングが「正しい表記」として適切かと。あまり発音に拘りすぎてはこのサイトの本来の意図(メディアに登場する銃火器データベース)から逸脱してしまいますので、「より発音に忠実な表記」は副次的な知識として載せるだけで十分だと思います -- 2011-04-03 (日) 16:00:09
  • 英語をカタカナで正しく表記できるという考えが間違い。LOVEをラブでもラヴでも同じだろ、細かい事いってたらロシア語とか一生表記できんぞ -- 2011-12-13 (火) 03:17:54
  • 数ヶ月も前のコメントに言われましても……。基本的にそれには同意なんですが、外来語の、特に固有名詞というのは、同じスペルでも表記一つで識別可能な人物が限られてくるという厄介な制約があるんですよ。例として同じHepburnでも「ヘボン」表記だと日本人なら「ジェームス・カーティス・ヘボン」を連想する方が大多数だと思いますが、「ヘップバーン」表記でヘボン医師を指していると識別できる方というのは少数ではありませんでしょうか。その表記からどういった人物・事象が識別されるか、というところまで皆様にはお考えいただきたく思います。 -- 2011-12-13 (火) 08:37:53
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*1 現在の仕入れた銃を売る「鉄砲店」とは異なり、当時は店主が銃の設計・開発・製造を行っていた鍛冶屋のような店だった。実際、ジョナサンはもともと鍛冶屋の弟子だった。
*2 マシュー・サンデファー・ブローニング。自身も銃火器設計に精通しながら、設計の実務はより能力の高い兄に任せてブローニング・アームズの経営面を主に担当した。終生オグデンに住み続け、当地の商業的な発展に尽力した。
*3 のちのブローニング・アームズ。
*4 トーマス・グレイ・ベネット。南北戦争にも参加した元軍人の実業家。ウィンチェスター社社長、シェフィールド科学学校管財人、イェール大学法人管財人などを歴任した。
*5 19世紀を代表する銃火器設計者のひとり。レミントン、コルト、ウィンチェスターを渡り歩いた。リボルバー式銃におけるスイングアウト機構の発明者で、コルト SAAコルト M1877などの開発に携わった。
*6 マーセラス・ハートリー。ニューヨーク出身の輸入商。19世紀アメリカを代表する武器商人。
*7 ドイツ武器軍需公社。
*8 ハート・オストハイマー・バーグ。ドイツ系アメリカ人の実業家。コルトやFNで管理職として務めたほか、ライト兄弟を支援し飛行機開発や航空事業の発展に貢献した。
*9 歩兵隊のジョン・タリアフェロ・トンプソン大佐と、衛生兵隊のルイ・アナトール・ラガード少佐によって行われた動物実験。様々な口径の拳銃を用意し、牛に向けて発砲して死亡するまでの時間などを観察した。ちなみに、トンプソン大佐はトミーガンの開発で有名。
*10 のちに陸軍からクレームが入り、返却された。
*11 ジョン・ジョセフ・パーシング将軍。第一次世界大戦後は陸軍参謀総長。
*12 ディウドネ・サイヴ。ジョンの死後FNの主任設計者の地位を引き継ぎ、FN FALなどの開発に携わった。
*13 ヴァルモア・"ヴァル"・アレン・ブローニング。第一次世界大戦では陸軍に所属し、最前線で父の銃を使用して戦った。のちブローニング・アームズ社長。
*14 ブルース・ウォーレン・ブローニング。ヴァルの息子でジョンの孫。スポーツ向け自動小銃のベストセラーとして知られるBARなどを設計した。

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