リロイ・ジェームス・"ジム"・サリバン
Leroy James "Jim" Sullivan(1933~2024)

 アメリカの銃火器設計者。
 AR-15ウルティマックス100など、数々の銃火器開発に携わったことで知られる。

 1933年アラスカ生まれ。第二次世界大戦が勃発し、アラスカが戦火に巻き込まれることを懸念したサリバン家はシアトルに移り住む。
 幼少期は特に銃火器に興味があったわけでもなく、せいぜい父親の友人のコレクションを物珍しさから眺めた程度だという。
 パブリック・スクールを卒業したのちにワシントン大学に入学し、工学を学んだ。

 折しも遠く離れたアジアで朝鮮戦争が勃発しており、陸軍に徴兵されることを知ったサリバンは、陸軍のダイバーになりたいと考えて大学を休学し、カリフォルニア州ロングビーチのダイビングスクールに通った。
 1953年に徴兵されると、基礎訓練を受けた。ここで初めて銃を手にしたという。
 基礎訓練後は工兵に配属され、野戦電話の設置・修理の訓練を受ける。休戦協定が結ばれた後の1954年には、念願のダイバーとして仁川上陸作戦で損害を負った石油パイプライン等の設備を修理する任務にあたった。
 技術職ゆえに銃を撃った経験は基礎訓練のときだけだったそうだが、銃火器の魅力に取り憑かれたサリバンはガン・マガジンや古今東西のガン・デザイナーの伝記を読み漁るようになる。

 朝鮮での任務を終えて本国に帰還したのち、軍を離れ大学に戻る。そこでアーマライトの記事を見つけ、製図工に応募する。1957年、アーマライトに入社。
 サリバンは最初の仕事としてAR-10の改良に取り組んだ。ストーナーのもともとの設計では側面から取り回していたガスチューブを上面に移設することなどを盛り込んだこの改良は成功し、サリバンは設計エンジニアに昇進する。
 当時すでにアーマライトでは.223レミントン弾を使用する新型軍用ライフルの設計プロジェクトが複数あり、それらはうまくいっていなかった。サリバンはガスチューブを上面に移設した新型AR-10をスケールダウンした設計を提案し、これが最終的に実用に耐えうる設計として採用された。
 これこそがAR-15である。

 その後、経営難に陥ったアーマライトを退社しナショナル・キャッシュ・レジスター(NCR)に入社。そこでは、マーストン・マット*1用のアースアンカーを設計するなどした。
 1962年にキャデラック・ゲージに入社したストーナーに誘われて移籍し、ストーナーM63の開発に携わる。このときストーナーが誘ったもう1人のエンジニアであるボブ・フリーモントが会社と揉め、そのあおりでサリバンとストーナーも社内では白い目で見られていたという。
 そういったこともあってか、キャデラック・ゲージ社も3年で退職する。

 1965年にコネチカット州に移りスターム・ルガーに入社。ここではまずM77を手掛けた。その後にお得意のスケールダウンのノウハウを用いて、M14の.223レミントン弾仕様ともいえるミニ14を開発した。
 社長のビル・ルガー*2とは良好な関係だったが、自身も夫人もコネチカットの土地が合わず、ここでもやはり3年で退職する。

 1968年、カリフォルニアに戻りヒューズ・アドバンスド・アーマメント*3に入社。車載用機関銃であるM73の更新に際してヒューズが企画していたチェーンガンのプロジェクトに招聘され、7.62mmモデルとなるEX-34の設計に携わる。
 その後はケースレス弾やチクレット弾*4の開発に取り組んだが、いずれも上手くいかなかった。
 ヒューズでの仕事と並行してアーマライト*5の社員と親交があり、ティンバーライン・ホーク*6という銃火器開発会社を立ち上げて試作を繰り返した。出資者の中にはかのジョン・ウェインもいたという。

 1970年代後半、シンガポールとコルトの間でM16のライセンス生産に関する問題があった。シンガポールはコルトとM16のライセンス生産についての契約を結んだが、生産したM16を他国に販売したいとも考えていた。
 これに対し、コルトと合衆国国務省は1976年に施行された武器輸出管理法(AECA)を根拠にノーを突きつけた。
 アーマライトはAR-18を売り込むつもりでいたが、AECAを引き合いに出されたことによってこれが現実的ではなくなった。そこでアーマライトはAECAを回避する方法として、シンガポールの銃火器開発会社であるCISにアメリカ人デザイナーを送り込むことを考えた*7
 そこで白羽の矢が立ったのがサリバンだった。
 1978年にCISに招聘され、3年間の開発期間をかけてウルティマックス100の開発を主導した。製造ノウハウの乏しい工場でありながら「コントロール可能なフルオート射撃」というコンセプトを実現するために苦心を重ね、ときには政府の役人と衝突するなど多くの困難を乗り越えた。

 ここからほぼ完全にフリーランスとなり、世界中の銃火器開発会社に赴く生活を始める。
 1981年にはイタリアに行きベレッタで働く。ここでも新型ライフルのプロジェクトに携わったが、完成前にイタリア空軍から既成品の受注があったために頓挫した。
 1983年、ゴードン・イングラム*8の出資者からの助言で5.56mmアサルトライフル用のドラムマガジンであるC-Magを設計。
 この後、イギリスに赴きSA80のコンサルティング等も行った。このとき、あまりの間違いの多さに驚き、忌憚なく意見を述べたところ現地エンジニアから反感を買い、何も改善はされなかったという。

 その後はアームウェストLLCを設立し、2002年には軽機関銃のMGXを発表。これはシュアファイアによって技術デモとして販売された。
 200以上の特許を取得しており、銃の設計・製造から銃弾そのものの設計までをカバーする広範な知識と経験を有し、80歳を超えても現役で銃火器開発に携わっていたが、2024年9月に91歳でこの世を去った。

 ちなみに、サリバンはお気に入りの銃について聞かれると、ライフルなら「歴史的にはM1ガーランド、技術的にはM16かAK47」、ハンドガンについては「M1911より優れた銃などない」と答えたという*9

 


最新の10件を表示しています。 コメントページを参照

  • サリバン氏は一つのメーカーに長く勤めるということはしないお方らしく、この他にもチェーンガンの設計、ベレッタ社でのライフルの設計など数々の銃器の設計開発に関与しています。 -- 2018-09-30 (日) 13:09:50
  • ストーナー氏ほど目立たないが、実はほぼ互角の実力者ではないかとも思える人物。遂に記事が出来たんですね。最近だとアームウェスト社で、Ultimaxを更に強化したような「バレル変更のみで口径が変更可能」な驚異の軽量機関銃MGXを完成させていましたね。当然これも反動のないコンスタントリコイル設計の様子。 -- 2018-09-30 (日) 14:07:40
  • M4の改良案として、フルオート時にオープンボルト方式になるメカニズムやフルオートサイクルを600発以下に抑えるボルトの開発もしているそうです。AR15の開発に初期から関わった正に生き証人ですね。 -- 2018-09-30 (日) 15:49:14
  • MGXすごいですね。実際に片手で射撃している映像は違和感しか感じられませんでした。ttps://www.youtube.com/watch?v=FXzn27vFb5Q -- 2021-02-02 (火) 14:53:25
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*1 野戦飛行場用の滑走路として使用するアルミ製のパネル資材。
*2 非常に気難しい性格で知られる。自身も銃火器デザイナーであり、自社の製品開発は特に厳しい目で見ていたとされる。
*3 ヒューズ・ヘリコプターズ社の銃火器開発部門。
*4 四角いプラスチック製のケースを薬莢とした弾薬。チクレットはチューインガムの商品名で、薬莢の形状が似ていることから。日本で見られるものだとクロレッツなどが近い。
*5 この頃にはフェアチャイルドから別の企業に売却されており、経営状況はそれなりだった。
*6 Timberline Hawk
*7 現在では禁止されている。
*8 非常に著名な銃火器デザイナー。MAC-10の開発で知られる、通称「マシンピストルの父」。
*9 https://smallarmsreview.com/the-interview-l-james-sullivan-part-iii-28-february2007/

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Last-modified: 2025-01-01 (水) 02:53:41 (116d)