火縄銃 †
戦国時代の鹿児島県種子島に伝わった前装式のマッチロック式銃で、その伝来地の名をとって「種子島銃」あるいは「種子島」と呼ばれることも多い。また火縄筒と呼ばれることもある。口径や使用する弾丸の重量によって、小筒、中筒、大筒の三種に大別される。
歴史 †
その伝来には諸説あり、『鉄炮記』の記述によると日本への鉄砲伝来は1543年(天文12年)の種子島で漂着した中国船に同乗していたポルトガル人が所持していたとされる。また、応仁の乱(1467年)で既に火縄銃の原始的な火器が使われていたのではないかという説もある。
国友などの刀鍛冶などによって大量生産されるようになると全国各地に普及し天文末期頃から戦場に導入され、それまでの弓矢や槍と並ぶ主力兵器として、持ち手の筋力によって威力が変わらないことから主に戦闘訓練をそれほど受けていない鉄砲足軽や、雑賀衆や根来衆といった傭兵が使用した。戦場での使用の他、戦のない時には鳥撃ちなどの狩猟にも使われており、これは射撃訓練と同時に食料の確保にもなる文字通り一石二鳥の行為であった。
その後も改良が続けられ騎兵銃の馬上筒(短筒)、末期には戦国の対物火器ともいうべき抱大筒(かかえのおおづつ)や火縄銃に取り付ける一種のライオットシールドである鉄砲楯も登場した。
江戸時代では主に持筒や鉄砲組といった江戸城の警備役が所持する他に関所の武器として設置されていたが、島原の乱(1637〜38年)の後、文治政治になり天下泰平の世になると兵器としての使用はほとんどなくなり*1猟銃としての使用が主になる。藩によるが一定の条件下で猟師や畑を荒らすイノシシやシカなどの野生動物を駆除するために東北地方や秩父地方などの農村で使用することが許可されるようになり、これは明治時代まで続くことになる。またバレルを数本束ねた連発銃なども作られたがこれらは実用品というよりも実験や趣味としての意味合いが強かったようである。その他に大名家などが所有する物は蒔絵などの豪華な装飾が施された物も存在する。
その後の幕末の戊辰戦争(1868〜1869年)ではスペンサーカービンやガトリングガンなどの欧米から輸入された最新式の銃が主流となった事で軍用銃としてはほとんど使用されなくなり、明治の西南戦争(1877年)で西郷軍が使用したのが戦場での最後の使用となった。
仕組み †
1.引き金を引くと火をつけた火縄が、あらかじめ黒色火薬を盛りつけておいた火皿と呼ばれる部品を叩く。
2.火は火皿の口薬と呼ばれる微粉末黒色火薬に引火する。
3.火皿内部に切られた導火孔の中の口薬は燃焼を続けて薬室内部へ到達する。*2
4.薬室内部の胴薬または玉薬と呼ばれる装薬に火が伝わるとそこで一気に燃焼(爆燃)、込められた弾丸を射出する。
装填方法 †
1.火縄に着火しておく。予備として複数の着火した火縄を準備することが多い。
2.銃口へ発射薬である胴薬と弾丸を装填する。火薬と弾丸*3は槊杖(カルカともいう。普段は銃身の下に収納されている。)で銃身の奥へ押し固める*4。
3.火皿に点火薬である口薬を入れ、事故防止のため火蓋(火皿カバー)を閉じ、火の点いた火縄先を火挟に挟む。
4.構えて狙いを付ける。標的の体に当る可能性を高める為に胴体の中心を狙う。
5.火蓋を開放し*5、引き金を引き発射。
威力 †
火縄銃は黒色火薬を使用する・滑腔銃身である・鉛製の丸玉を用いるといった点から、現代の小銃に比べると性能は(特に精度や射程面で)劣る。
しかし単純な威力は口径が大きく初速は480m/s程度に達するため、現代的な銃に比べて極端に劣るものではなく、種類やバレル長によるが現代的な散弾銃と同程度であるといえる。
特徴 †
発射までに時間がかかる、黒色火薬を用いるために現在使われている無煙火薬と違って使用時に大量の煙が出ることや、火縄が湿ると発射できないために雨天時には使用できない*6といった数多くの欠点がある。
また、ライフリングがないため銃の口径に入る大きさのものであれば、理論的には発砲不可能ではない。そのため金属製の弾の他に石や陶器製の弾も使われた。
その他 †
メディア上では戦国時代や江戸時代を扱った作品のほか明治時代のマタギを取り扱った作品に登場することが多い。
現代では銃砲刀剣類所持等取締法(銃刀法)の規制対象となっており、骨董品として所有するにしても登録が必要である。