カルロス・ノーマン・ハスコックII世
Carlos Norman Hathcock II (1942〜1999) †
1960年代にベトナム戦争において活躍したアメリカ海兵隊の狙撃手。
愛用のブッシュハットに白い羽根をつけていたことから「ホワイトフェザー*1」の異名を持つ。これは彼自身がスナイパーに必要な「臆病さ(チキン)」を現すために皮肉ってトレードマークとしたものと言われている。
スティーヴン・ハンターの小説「極大射程」などに登場するボブ・リー・スワガーはこのハスコックがモデルとされている。
1942年アーカンソー州リトルロック生まれ。幼い頃に両親が離婚し、母親の実家に引き取られる。貧しい家庭を支えるために10歳の頃から狩猟に明け暮れ、親戚から譲られたJ.C.ヒギンズ製モデル103.18ライフル*2で射撃の腕を磨いた。
1959年、17歳の誕生日を迎えると同時に夢だった海兵隊に入隊。すぐに射撃の腕を見出され、サンディエゴの新兵訓練所で基礎訓練を修了しライフルエキスパートおよびピストルエキスパートの技能章を取得し、ハワイの第一海兵遠征旅団に所属。
1962年にノースカロライナ州チェリーポイントの海兵隊航空基地に転属すると、そこで海兵隊の射撃技能Aコースで250発中248発命中の新記録を叩き出した。この記録はコースが廃止されるまで破られなかった。
1965年には海兵隊ライフル専門家射撃技能章を授章し、翌日にオハイオ州キャンプ・ペリーで行われた全米選抜の射撃競技大会「ウィンブルドン・カップ」にて優勝を果たす。
同年3月に軍曹に昇進するとベトナム戦争へ出征。当初は後方のMPとして配属されていたが、新人時代の指導教官であるジム・ランド大尉*3によって新設された第一海兵師団スナイパー/スカウトスクールの教官に抜擢される。
「教官が自ら得た実戦経験をフィードバックさせたい」というランド大尉の意向で、ハスコックは各地から選抜されたメンバーと共に、ランド大尉指揮下の狙撃部隊に加わり、最前線へ赴いた。以後、ユナートル社製8倍スコープを取り付けたウィンチェスター モデル70(.30-06)を愛銃にその腕を存分に振るうことになる。
公式戦果は93名*4で、これはベトナム戦争において第三位の記録である。
彼が有名なのは、公にされることのない多くの極秘作戦を遂行してきたことから、その数が実際の戦果とはかけ離れていることと、彼が行った狙撃任務の困難さが大きく関わっている。
有名なエピソードとしては、
・谷の向こうに陣取るベトナム軍歩兵部隊に対し、高い遠射能力を持つM2重機関銃にスコープを装着して狙撃を行うことを提案。2300mという長距離狙撃を成功させた。
・北ベトナム軍将校狙撃任務の際、標的に接近するために単身、ジャングルの中を1km以上も匍匐前進で三日かけて接近。狙撃を成功させた。
・象の谷と呼ばれる場所において、友軍を包囲しつつあった北ベトナム軍歩兵一個中隊を、観測手とたった2人で向かえ撃った。この際、相手の将校や通信士を次々と排除していくことで敵部隊の組織的行動を崩壊させ、5日間も戦い抜いて味方への損害を防いだ(エレファントバレーの戦い)。
・北ベトナム軍がハスコック抹殺のために送り込んだ12人のスナイパーの一人である通称「コブラ」と一対一の狙撃戦を展開。ハスコックを捉えていた敵スナイパーをスコープごと撃ち抜いてカウンタースナイプを成功させる。
などが挙げられる。
特にM2重機関銃を用いた長距離狙撃が軍関係者に与えた影響は大きく、フォークランド戦争においてアルゼンチン軍が同様の戦法をとってイギリス軍に打撃を与えたほか、M82対物狙撃銃が開発される契機ともなった。
数々の困難な作戦を成功させてきたハスコックだったが、1969年にクァンナム省チューライの基地周辺で乗っていたLVTP-5装甲戦闘車両が対戦車地雷を踏み炎上。一緒に乗っていた僚友たちを救助するために燃え上がる車両に飛び込み7人の命を救ったが、全身火傷の重傷を負ってしまう。
この負傷が原因でハスコックは前線を退き、教官職に専念することになる。カウンタースナイプなど、現在のミリタリースナイパーの運用に大きな影響を与え、これを確立させた。
1975年に多発性硬化症と診断され、病状が悪化した1979年に軍を退役。
このとき、退職金受領資格まで日数が足らなかったため、海兵隊はハスコックが満額を受領できるよう永久障害除隊を適用した。ハスコックは「病気を理由に追い出された」とひどく傷つき、一時は深刻なうつ病に陥るものの、釣りという新たな趣味を見つけることでこれを克服した。
その後は狙撃の指導を警察や軍関係者向けに行うなどして活躍し、1999年に56歳で家族に看取られながらこの世を去った。