フォークランド戦争 †
1982年に、アルゼンチン南端から東に数百km沖にあるイギリス領フォークランド諸島(アルゼンチン側呼称:マルビナス諸島)を巡ってイギリスとアルゼンチン間で勃発した戦争。比較的、規模が小さい事から「フォークランド紛争」とも呼ばれ、スペイン語圏では南大西洋戦争とも呼ばれる。
フォークランド諸島は以前より両国間で領土問題となっていたが、長年の調停交渉も決着が付かなかった。これに業を煮やした当時のアルゼンチン軍事政権(レオポルド・ガルチェリ大統領)は、不況による国内不満を逸らす目的を兼ねて、1982年4月2日に『マルビナス諸島』獲得のため部隊を上陸。イギリス軍の守備隊を捕虜にし、国交を断絶し交戦状態に入る。
これに対してイギリス軍は直ちに機動艦隊を派遣。加えて原子力潜水艦での海域封鎖、戦略爆撃機による空爆など陸・海・空軍の総力を挙げて奪還に乗り出した。西側兵器同士の激しい攻防戦の末、5月21日には、イギリス軍主力がサン・カルロスより逆上陸。6月14日、島都ポート・スタンレーが陥落した。これ以上の継戦は不可能と判断したアルゼンチン政府は、17日、ガルチェリ大統領(軍司令官兼任)及び政府要人が総辞職。6月20日、最後まで残っていたサウス・サンドイッチ島が陥落し、イギリス政府が停戦を宣言。72日間に及ぶ戦争は終結した。
・政治的背景
アルゼンチン側にとっては「イギリス本土から遠く離れた島を奪回しても、既に幾つもの植民地を手放した様にイギリスは所有権を放棄するに違いない」と見越しての強行策だった。しかし、予想とは裏腹にイギリス側の対応は非常に素早く、4月3日には機動艦隊の編成が命じられ、5日には早くも空母2隻を中核とする第317任務部隊がフォークランド奪還を目指して出撃。さらに12日には原潜部隊によってフォークランド周辺の海域が封鎖され、海上輸送を阻止されたフォークランドのアルゼンチン部隊は孤立してしまった。当時のイギリスの首相は「超」が付くほどのタカ派で、『鉄の女』の異名をとるマーガレット・サッチャーであり、奪われたフォークランド諸島の奪回に、国の威信をかけて全力で挑んできた事が、アルゼンチンにとって最大の誤算だった。当時のサッチャーは厳しい国内政策による失業者の増加などで支持率が低下、引くに引けない状況にもあった。
国際社会もアルゼンチンには冷淡だった。アメリカやNATO加盟国を主とする西側諸国は、(同じ西側陣営同志の戦争に困惑しながらも)「同盟国への侵略行為は一切認めない」との姿勢でイギリスを一貫して支持。国連の安全保障理事会も、アルゼンチンの即時撤退を決議した。隣国チリも、国境問題を抱えるアルゼンチンに味方せず、イギリス側に基地や情報を提供する有様で、政治的・戦略的にもアルゼンチンには全く勝ち目がなかった。
・軍事面
軍事的にはVTOL(垂直離着陸)機や対艦ミサイル、原子力潜水艦など、近代兵器が実戦に投入された事でその有効性と反省が後の兵器開発に影響を与えた。両軍で使用された兵器のほとんどは実戦を経験していなかったが、この紛争で定量的に評価されることになった。また、アルゼンチンはイギリスから兵器を一部輸入していた上、両軍ともアメリカやフランス、ベルギーなどの西側第三国で設計開発された兵器を多数使用しており、FALや42型駆逐艦など、同一の兵器を使用した軍隊同士の戦闘という特徴があった。
戦況は、イギリス側が終始優勢だったが、全くのワンサイドゲームというわけでもなかった。特に海上の戦闘では、序盤でイギリス海軍のチャーチル級攻撃型原潜「コンカラー」がMk8魚雷2発でアルゼンチン海軍巡洋艦「ヘネラル・ベルグラーノ」*1を撃沈*2、ヘリからの攻撃で潜水艦「サンタフェ」を大破させたものの、以後アルゼンチン海軍は慎重な動きに終始。逆にイギリス側は、アルゼンチン海軍攻撃隊のシュペルエタンダール攻撃機から発射された対艦ミサイル・エグゾセによる42型駆逐艦「シェフィールド」の撃沈(いわゆる『シェフィールド・ショック』)を筆頭に、アルゼンチン空軍のA-4「スカイホーク」やIAIダガー*3の爆撃により21型フリゲート「アーデント」、「アンテロープ」*4、42型駆逐艦「コヴェントリー」、シュペルエタンダールのエグゾゼ(2発発射されたうちの1つ)で臨時空母として使用されていたイギリス海軍徴用コンテナ船「アトランティック・コンベイヤー」が撃沈され、その他艦艇数隻が大破した。
6月8日には補給揚陸艦「サー・ガラハッド」と揚陸艇F4号がアルゼンチン空軍機の攻撃で撃沈。炎上する「サー・ガラハッド」から、片足をもぎ取られた兵士が担架で運び出されるビデオ映像は、この戦争で最もショッキングなシーンとして記憶されている。
イギリス側も当然、航空攻撃を警戒してはいたが、艦船搭載のレーダーでは低空から侵入する攻撃機やミサイルを捉えきれず、早期警戒機の重要性が改めて認識されることとなった。また実際の損害はなかったものの、アルゼンチン潜水艦「サン・ルイス」からもたびたび接触、攻撃を受けており、潜水艦の脅威も再認識された。
イギリス側にとっては、第2次世界大戦で戦艦2隻を日本海軍の航空攻撃で失った『マレー沖海戦』に匹敵する損害、屈辱と言われ、海軍も大きな非難を受けた。もっとも、戦果は大きかったものの、地上部隊の上陸を阻止できなかったため、戦略的にはアルゼンチン側の敗北と言える。
上陸戦・地上戦でも、サウス・ジョージア島での攻防では、アルゼンチン軍狙撃部隊の暗視装置付きM2重機関銃などによる夜間攻撃*5で苦戦を強いられる局面があった。しかし、総合するとアルゼンチン側は装備や兵の練度で劣っており*6、局地戦では善戦しても、最終的な勝利は得られなかった。
また、後にこの戦争で初めて『レーザー兵器』が使用されたことが明らかになっている。これは「Laser Dazzle Sight(LDS)」と呼ばれ、イギリス軍の艦艇の一部に搭載され、飛来するアルゼンチン空軍機に対して照射されたという。もちろん航空機を撃墜するような威力はなかったが、パイロットの目を幻惑させて狙いを狂わせる『目くらまし』の効果があった。戦後、アルゼンチン側の証言と、パイロットの一部に視力障害の後遺症があったことから明るみに出たもので、後にイギリス側も使用を認めた。
その後、この種の『目潰しレーザー』は相手を失明される危険性が高い事から、非人道的兵器として1995年、『失明をもたらすレーザー兵器に関する議定書』で禁止される事となり、フォークランド紛争が唯一の実戦投入例となった。
・戦後
戦後、勝利したイギリスのサッチャー政権は支持率を回復。以後、1990年の辞任まで長期政権を確立した。一方、敗北したアルゼンチンでは軍部の威信が失墜。領土の奪還には失敗したものの、軍縮と民政移管が進み、チリ、ブラジルとの軍事対立も緩和するなどの「正の遺産」ももたらされた。
イギリス・アルゼンチン両国は1989年10月に開戦以来の敵対関係の終結を宣言し、翌1990年に国交を正式に回復。しかし、フォークランド諸島の帰属については、現在も互いに自国の領有権を譲らず、未だに結論は出ていない。近年は周辺海域の海底資源を巡って対立が先鋭化するなど、火種はなおもくすぶり続けている。
イギリス軍(損害) | イギリス軍(総戦力) | 国 | アルゼンチン軍(総戦力) | アルゼンチン軍(損害) |
死者256名 負傷者777名 | 約8000人 | 地上部隊 | 約11000人 | 死者746人 負傷者1336人 |
18機 | 20機*7) | 航空機 | 約220機*8 | 83機 |
駆逐艦2 フリゲート2 揚陸艦1 揚陸艇1 補助艦(徴用船)1 | 空母2 駆逐艦8 フリゲート15 原子力潜水艦4 通常動力潜水艦2 その他補助艦11 | 艦船 | 空母1 巡洋艦1 駆逐艦7 フリゲート3 通常動力潜水艦4 その他補助艦16 | 巡洋艦1 通常動力潜水艦1 輸送艦2 哨戒艇2 |