在ペルー日本国大使公邸占拠事件 †
1996年12月17日に発生したペルーの日本大使公邸占拠事件。
その日、祝賀レセプションを開催中だった日本大使公邸を、トゥパク・アマル革命運動(MRTA)を名乗る武装集団14名が襲撃、日本大使を含む約300名を人質に取り、ペルー政府に対して政策の変更や同志の釈放、活動費を求める声明を出す。この要求に対して、ペルー大統領は要求の拒絶と、武装解除および人質の解放を行えば、実力行使(武力鎮圧)を行わない旨を発表。
以後、政府とMRTAによる会合が行われ、物資と引き替えに人質を一部解放するなどの幾つかの交渉が成立するも、決定的な解決は望めないまま長期戦となってゆく。
年は明け1997年、軍・警察の包囲の中、幾度も対話は続けられるも、交渉は互いにとって不調に終わる。
そんな中、諸外国との調整と、突入準備が完了したペルー政府は、事件発生127日目の4月22日に実力行使を開始。
15時23分、海軍特殊作戦部隊(FOES)140名が門、地下トンネルなどから公邸に突入する。銃撃戦の末、特殊部隊員2名と人質1名が死亡するも、残る人質71名の救出と
MRTA全員の死亡が確認され、公邸中庭でのペルー大統領の勝利宣言と共に事件は終結した。
予想に反して人質の被害が少なかったのは、十分な教育を受けていない青年が大半であったMRTAが、閉鎖的空間で寝食を共にした人質に親近感を抱き、いざ突入に瀕しても人質に銃を向けることができなかったからとされている*1。後にこの現象は「リマ症候群」として世間に認知された。
ただし、この事件にまつわるペルー大統領の政敵抹殺疑惑(人質唯一の死亡者が反大統領派の有力者だった)や、突入部隊による降伏者の射殺疑惑など、今現在もこの事件の余波が続いている。
余話として、突入・救出作戦を成功裏に終えたペルー特殊部隊の突入訓練には、英国陸軍特殊部隊SASがその指導を行い、作戦時にもオブザーバーとして関わっている。また、ペルー特殊部隊が、ボディアーマーを身に着けていたMRTAメンバー全員を射殺、作戦を成功させた際、装備していたのがサウンドサプレッサーを装着したP90であったことから、登場から間も無い最新小火器だったP90の知名度と評価は一気に上がり、その後大きなシェアを獲得することとなった。
また、日本政府は本事件の解決にとSATを中心にした独自の突入部隊を編成させ、日本国内に公邸そっくりの施設を作り、作戦の実行に関係する要員数名をドイツに派遣して人質奪還作戦に関するノウハウを学ばせ、突入訓練を行っていたとの噂もある。