シモ・ヘイヘ
Simo Häyhä (1905〜2002)

 1939年に開戦した冬戦争において驚異的な戦果を挙げたフィンランド出身の伝説的スナイパー。
 ロシアの国境近くの小さな村で生まれたヘイヘは幼い頃から猟師として生活しており、その経験が狙撃技能を培うこととなったとされる。
 1925年、20歳でフィンランド国防軍に入隊した彼はのちの訓練において150m先の的に対して一分間に16発必中させるという驚くべき腕前を見せた。そして1939年に開戦した冬戦争においてヘイヘはモシンナガンM28(フィンランドのライセンス生産によるモシンナガンM1891)を武器に狙撃兵として戦いに参加。その腕をいかんなく発揮し、最終的に戦線を離脱する僅か100日間で狙撃だけで505人もの敵兵を射殺した。
 特筆すべきなのは、

 ・狙撃にスコープを用いず、アイアンサイトのみで行う(一番の理由はレンズの反射光で敵兵に発見されるのを嫌ったからという)。にもかかわらず300m以内なら相手の頭部に必中。
 ・狙撃で射殺した敵兵505人の内、138人は僅か5日間で行った。
 ・コラー河近郊での戦闘(別名キラーヒルの戦い)にて31人の仲間と共に4000名のソ連兵を相手にし、死守に成功(後にコラー河の奇跡と呼ばれる)。
 
 という点である。
 更にヘイヘはサブマシンガンの扱いにも長け、スオミ KP-31を活用して少なくとも200人以上の敵兵を射殺(一説には狙撃で倒した敵兵より多いとされている)した。
 また、愛銃のモシンナガン小銃は途中、活躍の功績として支給された特別モデルに置き換わることとなった。これはフィンランドのサコ社が、彼の152cmという小柄な身長に合わせて銃身を切り詰めヘビーバレルにしたカスタムモデルである。
 その戦果はソ連軍を恐怖に陥れ、白い迷彩服を着込んで白い雪原に同化していたことから「白い死神」と呼ばれるようになる。
 そんなヘイヘだったが冬戦争終戦間際にソ連軍スナイパーの狙撃を顎に受け意識不明の重傷を負い、前線を退くことになった。
 彼が意識を取り戻したのは終戦直後である。この功績で彼は勲章を授与され、五階級特進(兵長→少尉)という栄誉を受けたがそれ以降戦場にでることはなく、静かな余生を過ごした。
 
 彼は晩年自分の驚異的なスコアについて「できると言ったことを実行しただけ」と書き記している。
  "Häyhä"は、日本では一般的にヘイヘとされるが、駐日フィンランド大使館のtwitterによるとハユハと読むのが近いらしい*1。また彼の愛称はSimuna(シムナ)であるとの発言もしている*2

 なお確かに彼が優れた狙撃手であることには疑いがないが、同世代に全く同レベルの戦果を挙げた狙撃手が居なかったわけではなく、当時相対していたソ連軍に限っても10人は400〜500人台の戦果を挙げた狙撃手が存在している。


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  • 最近本が出版されましたね^^今読んでる途中です -- ポテチ? 2012-03-31 (土) 16:49:22
  • 歴史本としてみてもなかなか面白い本ですよね -- 2012-11-18 (日) 19:27:54
お名前:


*1 https://twitter.com/#!/FinEmbTokyo/status/163498317920210944
*2 https://twitter.com/#!/FinEmbTokyo/status/163501085628174336

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Last-modified: 2016-04-13 (水) 00:05:18 (3157d)