旧共産圏を代表するソ連/ロシアの銃器デザイナー。
シベリアの農家に生まれたミハイル・カラシニコフは1938年、ソ連陸軍に徴集されて戦車操縦兵となった。大祖国戦争が始まると、赤星勲章(ソ連の戦功勲章)を授与されるほどの活躍を見せたが、1941年10月のブリャンスク戦で重傷を負い入院することとなった。
彼は入院生活中、病院を訪れる多くの兵士から「如何にソビエト連邦の武器は複雑で、性能が劣っているか」といった話を多く聞くことに驚き、彼は一般的な兵士にはもっとシンプルで性能の高い銃器が必要なのだという考えを持つようになる。
退院後、復帰までの間後方部隊に配属された彼はさっそく余剰の時間を用いてシンプルで優れた銃火器の設計を開始する。1942年、彼は見事短機関銃を完成させ報告するが、これは当時の供給の問題から採用されることはなかった。しかし、この一件によってその才能を認められたカラシニコフ軍曹は、戦後のソビエト連邦の優位を担う次世代自動小銃の開発を進める中央研究所へと配属が決定。銃火器設計者としてのキャリアを始めることとなった。
その後、様々な経緯を経てAK小銃がソビエト連邦の制式小銃に決定されると、彼の銃火器設計者としての地位はいよいよ揺るぎないものとなった。これを皮切りに、彼はその後もPK、RPKなどソ連軍の主力小火器を次々開発していくこととなる。
最終的な階級は技術中将だが、それまでの功績から特例として、引退した後も彼は「退役中将」ではなく「中将」であった。またソビエト時代に2度(1958/1976)の社会主義労働英雄称号、ソビエト解体後の1998年にロシア連邦の最高勲章である聖アンドレイ勲章、2009年の90歳の誕生日にはロシア連邦英雄称号が授与された。
とはいえそんな彼も、いわゆるパテント料といったものは、1ルーブルも手にしていない。これはかつてのソ連が社会主義国家であり、個人資産の概念は無かったためである。一方、対極ともいえるアメリカ合衆国のM16を開発したユージン・ストーナー氏は、そのパテント料で億万長者となっている。
2013年に満94歳で死去。しかし同年にはロシア最大の銃火器メーカイズマッシュが「カラシニコフ・コンツェルン」へと改名、2017年にはモスクワに9mの銅像が建立されるなどその栄光は未だに色褪せないようである。
余談だが、ビゾン短機関銃を開発したことで知られる息子のビクトル・カラシニコフは、実は結婚する前に付き合っていた恋人と間に出来た子供である。
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