湾岸戦争 / Gulf War †1991年1月17日から同年2月28日まで行われた、アメリカを筆頭とする多国籍軍とイラク軍との戦争。 発端は1990年に起こったイラクの隣国クウェートによるイラク原油盗掘疑惑であり、これに対しイラクはクウェートに対し賠償を要求。クウェートが要求を拒否し交渉が決裂すると、イラク軍は1990年8月2日午前2時(現地時間)、戦車350両を中心とするイラク軍機甲師団10万人でクウェート領へと侵攻を行い1日でクウェート全土を占領、後の8月8日にイラク第19番目の州であるとして併合を宣言する。 この軍事行動に国連はイラク軍のクウェートからの無条件撤退を通告し、受け入れられない場合は国連加盟国による武力行使の容認を宣言するが、中東の支持を得られていると踏んだイラクは徹底抗戦を表明。しかしここでクウェートと同じくイラクと隣接するサウジアラビアが、イラクへの恐怖心からアメリカへ支援を要請しアメリカ軍の国内駐留を容認*1。これにより一気に情勢は国連側へと傾き、イラク国境をアメリカ軍を主力とした多国籍軍が包囲する中、国連が指定した撤退期限の1991年1月17日が経過。多国籍軍は宣言通りイラク本土への航空機攻撃を開始し『湾岸戦争』が勃発する。 「砂漠の嵐」作戦 での多国籍軍の一ヶ月に及ぶ空爆作戦でイラク軍は壊滅し、イラクは最後のチャンスとして、イスラエルに改良型スカッドミサイル「アル・フセイン」と「アル・ファジャラ」計43基を撃ち込みイスラエルに反撃を行わせて中東全体の戦争(「アラブ(イスラーム)対イスラエルとその支持者(ユダヤ教・キリスト教)」の構図を築こうとした)に仕向けようとしたが、アメリカの慰撫によりイスラエルは反撃を行わず目論見は失敗*2。万策尽きたイラクは『条件付き撤退』まで譲歩するが、多国籍軍側はなおも無条件撤退を要求。この要求にイラクが沈黙すると、2月24日「砂漠の剣」作戦を発動し地上戦に突入。地上部隊をクウェートを包囲する形で投入した。 この戦争で、制空権を得た側は戦争を支配する事が再確認された事と、制空権を得た戦場での攻撃機、攻撃ヘリによる制圧力の絶大さが見直された。 また、東側陣営の主力戦車であるイラクのT72戦車が、米陸軍のM1A1エイブラムズや英陸軍のチャレンジャー戦車に一方的に敗れた。イラクのT72は、輸出向けにスペックダウンされたモデルではあったが、レーザー検知器など独自の改良を行っていた。しかし貫通力の高い劣化ウラン弾を採用した強力な砲弾、同じく劣化ウランを織り込んだ防御力の高い装甲、夜間でも確実に標的を捕らえる事のできる射撃統制装置など、最先端の装備の施された西側戦車とその差は歴然であった。この戦闘の記録映像が世界中に流された事もあり、これまで秘密のベールに包まれていた東側戦車の神話が崩壊した。 また本戦争で「湾岸戦争症候群」と呼ばれるアメリカが使用した劣化ウラン弾の影響とよるものと思しき障害者が続出し、放射性障害なのか、はたまた重金属毒性による障害かの議論と、どちらにせよ毒性のある砲弾の使用是非が今でも論じられている。 ちなみに日本政府は資金援助の他、避難民救援のための輸送機を飛ばす計画を検討していたが結局実行されず、戦争終結後に海上自衛隊の掃海部隊を派遣するだけに留まった。その掃海任務も当時の掃海艇の装備では敷設された機雷のほぼ全てに対応できなかったため人員による作業が行われるなどかなりトラブルがあったようであった。
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