*ミハイル・ティモフェビッチ・カラシニコフ / Mikhail Timofeevich Kalashnikov(1919〜) [#l61524a3]
#author("2023-05-28T00:28:41+09:00","default:user","user")
*ミハイル・ティモフェビッチ・カラシニコフ&br;Михаил Тимофеевич Калашников(1919〜2013) [#l61524a3]

 ソ連を代表する銃工で[[AK47>USSR AK47]]の設計者。
 1938年にソ連陸軍に徴集され、戦車操縦兵となる。[[大祖国戦争>独ソ戦]]では赤星勲章(ソ連の戦功勲章)を受賞されるほどの活躍をしていたが、1941年10月のブリャンスク戦で重傷を負い後方へ送られる。その際、一緒に送られる他の負傷兵がドイツ軍の襲撃に遭い自動銃で皆殺しにされる。その光景に自動銃の威力と必要性を痛感し、半年後、傷の癒えた氏は銃工へと転身する。
 大祖国戦争後、ドイツの[[StG44>ハーネル Stg44]](アメリカの[[M1カービン>ウィンチェスター M1]]説もあり)を参考に自国に適した[[突撃銃]]を開発。これがAK47の名前で[[SKS>USSR シモノフSKS]]の後継として採用された事を皮切りに[[PK>USSR PK]]、[[RPK>USSR RPK]]、[[AKM>USSR AKM]]などソ連軍主力小火器の開発に関わった。最終階級は中将。
 旧共産圏を代表する[[ソ連>USSR]]/ロシアの銃器デザイナー。

 余談ながら[[M16>コルト AR15]]を開発した[[ユージン・ストーナー]]はそのパテントで億万長者となったが、ソ連は社会主義国家で個人資産の概念は無いので、カラシニコフが貰ったのは勲章のみで彼個人には1ルーブルも入らなかった。
 しかし近年、エリツィン元ロシア大統領が彼のためにAK47のパテント料を徴収してみせると演説。その後、ロシア以外のAKコピー銃の一部にパテント料逃れが目的と思われるデザイン変更が始まっており、徴収の動きは徐々に具体化しているようだ((もっともその結果、ただでさえ豊富なAKバリエーションが、さらに複雑多岐に分化していきそうな気配もあるが。))。
 1919年、シベリアの農家に生まれるが、1930年に家が富農認定を受けたため、コルホーズに追放される憂き目にあう。1936年に脱走を試みた際にパスポート用の検印と印章を偽造(生涯初の発明だったと氏は回想している)したほか、隠し持った拳銃の分解整備に熱中し、これが後のキャリアの原点となる。
 1938年、兵役のためソ連陸軍に入隊し、戦車操縦士兼整備士となった。様々な装置の提案・開発を行い、ゲオルギー・ジューコフ将軍から直々に記念腕時計を送られたが、[[大祖国戦争>独ソ戦]]勃発とともに前線送りとなる。前線では赤星勲章(ソ連の戦功勲章)を授与されるほどの活躍を見せたが、1941年10月のブリャンスク戦で重傷を負い入院することとなった。
 入院生活中、病院を訪れる多くの兵士から「如何にソビエト連邦の武器は複雑で、性能が劣っているか」といった話を多く聞くことに驚いており、また自身も戦場でドイツ軍の持つ自動化された火器の性能を痛感していたことから、一般的な兵士にはもっとシンプルで性能の高い銃器が必要なのだという考えを持つようになる。退院後、復帰までの間後方部隊に配属された彼はさっそく余剰の時間を用いてシンプルで優れた銃火器の設計を開始する。

 なお、カラシニコフ氏を直接取材したこともあるライター・床井雅美氏の談によると、氏の射撃の腕前は「設計の才能には比例しない」、とか。
 1942年、彼は見事[[短機関銃]]を完成させ報告するが、これは当時の供給の問題から採用されることはなかった。しかし、この一件によってその才能を認められたカラシニコフ軍曹は、戦後のソビエト連邦の優位を担う次世代[[自動小銃]]の開発を進める中央研究所へと配属される。銃火器設計者としてのキャリアを始めることとなった。ちなみに独学で設計を学んだ彼は正しい設計図面を描けなかったため、女性工のエカチェリーナ・ヴィクトロヴナ・モイセーエワが代筆することになった。後に彼女はカラシニコフの妻となる。
 その後、様々な経緯を経て[[AK小銃>USSR AK47]]がソビエト連邦の制式小銃に決定されると、彼の銃火器設計者としての地位はいよいよ揺るぎないものとなった。
 これを皮切りに、彼はその後も[[PK>USSR PK]]、[[RPK>USSR RPK]]などソ連軍の主力小火器を次々開発していくこととなる。

 マルタ会談による冷戦終結後の1990年5月16日にカラシニコフは渡米して[[M16>コルト AR15]]の設計者である[[ユージン・ストーナー]]と初めて対面した。二人は数日間、語り合い、買い物や夕食をともにするなどして親交を結んだ。
 最終的な階級は技術中将だが、それまでの功績から特例として、引退した後も彼は「退役中将」ではなく「中将」であった。またソビエト時代に2度(1958/1976)の社会主義労働英雄称号、ソビエト解体後の1998年にロシア連邦の最高勲章である聖アンドレイ勲章、2009年の90歳の誕生日にはロシア連邦英雄称号が授与された。
 とはいえそんな彼も、いわゆるパテント料といったものは、1ルーブルも手にしていない。これはかつてのソ連が社会主義国家であり、個人資産の概念は無かったためである。一方、対極ともいえるアメリカ合衆国のM16を開発したユージン・ストーナー氏は、そのパテント料で億万長者となっている。
 
 AK小銃が無秩序にコピーされテロや犯罪に多用されたことに対しては、祖国を守るために作ったはずの武器がそれらに現場されていることに非常に心を痛めていた。

 胃の出血のため2013年11月17日からイジェフスク市内の病院に入院し、12月23日に満94歳で死去。
 奇しくも同年にはロシア最大の銃火器メーカー[[イズマッシュ]]社が「カラシニコフ・コンツェルン」へと改名。2017年にはモスクワに9mの銅像が建立されるなど、その栄光は未だに色褪せないようである。 

 余談だが、[[ビゾン短機関銃>短機関銃/イジェマッシュ ビゾン]]を開発したことで知られる息子のビクトル・カラシニコフは、実はエカチェリーナ夫人と結婚する前に付き合っていた恋人との間に出来た子供である。
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