1991年1月17日から同年2月28日まで行われた、アメリカを筆頭とする多国籍軍とイラク軍との戦争。
発端は1990年に起こったイラクの隣国クウェートによるイラク原油盗掘疑惑であり、これに対しイラクはクウェートに対し賠償を要求。クウェートが要求を拒否し交渉が決裂すると、イラク軍は1990年8月2日にクウェート領へと侵攻を行い1日で首都を制圧、後にイラクへの併合を宣言する。
この軍事行動に国連はイラク軍のクウェートからの無条件撤退を通告し、受け入れられない場合は国連加盟国による武力行使の容認を宣言するが、中東の支持を得られていると踏んだイラクは徹底抗戦を表明。しかしここでクウェートと同じくイラクと隣接するサウジアラビアが、イラクへの恐怖心からアメリカへ支援を要請しアメリカ軍の国内駐留を容認*1。これにより一気に情勢は国連側へと傾き、イラク国境をアメリカ軍を主力とした多国籍軍が包囲する中、国連が指定した撤退期限の1991年1月17日が経過。多国籍軍は宣言通りイラク本土への航空機攻撃を開始し『湾岸戦争』が勃発する。
多国籍軍の一ヶ月に及ぶ徹底的な空爆作戦でイラク軍は壊滅し、イラクは最後のチャンスとして、イスラエルにミサイルを撃ち込みイスラエルに反撃を行わせて中東全体の戦争に仕向けようとしたが、アメリカの慰撫によりイスラエルは反撃を行わず目論見は失敗。万策尽きたイラクは『条件付き撤退』まで譲歩するが、多国籍軍側はなおも『無条件撤退』を要求。この要求にイラクが沈黙すると、今度は地上部隊をクウェート領に投入して首都を解放。2月28日にはアメリカ大統領の勝利宣言と、イラクの国連決議受諾宣言、そしてイラク全軍の戦争停止命令を持って湾岸戦争は終結した。
この戦争で、制空権を得た側は戦争を支配する事が再確認された事と、制空権を得た戦場での攻撃機、攻撃ヘリによる制圧力の絶大さが見直された。その一方、航空戦力では地下に隠蔽された戦力を破壊できない事も露呈され、1ヶ月に及ぶ多国籍軍の空爆でもイラク軍戦車の半分も破壊できなかった事が特記される。ついでに東側の主力戦車であるイラクのT72戦車がアメリカの主力戦車であるM1A2エイブラブズ戦車に一方的に敗れ、これまで秘密のベールに包まれていた東側戦車の神話が崩壊した。
また本戦争でアメリカが使用した劣化ウラン弾の影響とよるものと思われる障害者が続出し、放射性障害なのか、はたまた重金属毒性による障害かの議論と、どちらにせよ毒性のある砲弾の使用是非が今でも論じられている。
多国籍軍(損害) | 多国籍軍(開戦時) | 国 | イラク軍(開戦時) | イラク軍(損害) |
死傷者517名 捕虜46名 | 約54万人 | 総兵士数 | 約40万人? | 死傷者約5万人 捕虜約5万人 |
62機 | 約9000機 | 航空機 | 約150機 | 約150機*2 |
84輌 | 約3000輌 | 車輌 | (不明) | 約3400輌 |