#author("2021-09-07T00:04:00+09:00","default:user","user")
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*PRC 63式自動歩槍 【突撃銃】 [#x3e9c8f5]
#ref(type63.jpg,center,60%)
|全長|銃身長|重量|口径|装弾数|発射形式|発射速度|製造国|h
|1032mm(銃剣折畳時)&br;1342mm(銃剣展開時)|520mm|3.87kg(空マガジン込)|[[7.62mm×39>口径#RifleAmmo]]|20/30|S/F|750rpm|中国|


 中国が1959年から初めて独自開発し、1963年に採用された[[突撃銃]]。量産は[[国営296廠>中国南方工業集団公司]]が担った。
 当時、"独立自主・自力更生"を掲げて国情に適合した自国開発兵器を求めていた中国であったが、自動小銃の開発を担える機関が無かった為、重慶第一機械工業学校(現、重慶理工大学)、中国軍、工廠の三者による"三結合"により、自動小銃の開発と自動小銃の開発能力育成が同時に図られた。

 [[56式半自動歩槍>USSR シモノフSKS]]と[[56式冲鋒槍>突撃銃/PRC 56式自動歩槍]]を共に更新する自動小銃として開発され、おおまかな外観は56式半自動歩槍に着脱式20連マガジンを組み合わせた様相だが、その中身は大きく改良されている。
 閉鎖方式に56式冲鋒槍と同様の回転ボルト方式を採用して機関部を軽量化、ガス規制子の採用、56式冲鋒槍に似た着脱式マガジンながらも[[ボルトホールドオープン>スライドストップ]]に対応した独自開発のマガジンなどである。
 この内で最も重要な点はガス規制子が追加された事である。56式半自動歩槍と56式冲鋒槍ではガス規制子が無く大口径のガス導入孔を設けられていた為、ボルトの後退速度が速過ぎて機関部との衝突時の振動や負荷が大きく、耐久性と連射時の射撃精度を大きく損なっており、しかも中ソ対立によりソ連から鋼材が調達できなくなって性能に劣る国産鋼材に転換して以降、耐久性の問題は更に悪化していた((ソ連から供給されていた鋼材はクロムとニッケルが添加された合金鋼だったのだが、中国国内ではクロムとニッケルを殆ど産出しない為、代替材料としてチタンとタングステンとホウ素を添加した合金鋼を採用していた。))のだが、ガス規制子を採用した事でボルト後退速度を適切に制御出来るようになり、耐久性は56式半自動歩槍で耐用命数6000発((なお56式半自動歩槍の国産鋼材への転換直後はクロム節約の為に銃身のクロムメッキさえ省略しており耐用命数6000発を下回る個体があり、これ以降、銃身のクロムメッキは省略しない事となった。))だったのが15000発と大きく向上し、またフルオート射撃時の精度も56式冲鋒槍と比べて大きく向上した。
 この内で最も重要な点はガス規制子が追加された事である。56式半自動歩槍と56式冲鋒槍ではガス規制子が無く大口径のガス導入孔を設けられていた為、ボルトの後退速度が速過ぎて機関部との衝突時の振動や負荷が大きく、耐久性と連射時の射撃精度を大きく損なっており、しかも中ソ対立によりソ連から鋼材が調達できなくなって性能に劣る国産鋼材に転換して以降、耐久性の問題は更に悪化していた((ソ連から供給されていた鋼材はクロムとニッケルが添加された合金鋼だったのだが、中国国内ではクロムが殆ど産出しない為、代替材料としてチタンとタングステンとホウ素を添加した合金鋼を採用していた。))のだが、ガス規制子を採用した事でボルト後退速度を適切に制御出来るようになり、耐久性は56式半自動歩槍で耐用命数6000発((なお56式半自動歩槍の国産鋼材への転換直後はクロム節約の為に銃身のクロムメッキさえ省略しており耐用命数6000発を下回る個体があり、これ以降、銃身のクロムメッキは省略しない事となった。))だったのが15000発と大きく向上し、またフルオート射撃時の精度も56式冲鋒槍と比べて大きく向上した。

 こうして、無謀な開発計画ながらも国情に適合し、なおかつ既存銃器よりも優れた性能となったこの自動小銃は1963年に制式採用されて63式自動歩槍となったが、時機に恵まれず量産は後回しにされた。
 というのも当時、中国の東では1960年に台湾の国民党政府が大陸反攻作戦である国光計画を策定し、海軍の小型舟艇による中国大陸沿岸部への襲撃作戦を幾度も実施していた((なおほぼ全て中国軍により阻止撃退されている。))他、西ではインドとの国境対立は未だ続いており、南では年々激化していくベトナム戦争で北ベトナム側に供与する為の兵器需要が増加、そして北ではソ連との対立が深まっていた為に、とにかく兵器の性能よりも数が必要な情勢であり、当時の中国で小銃生産を担っていた国営296廠も中国ほぼ全土((政情不安の為に新疆ウイグル自治区は除外された。))で小銃生産体制を構築すべく技術者らが技術指導の為に動き回っており、新型小銃に携わる余裕が無かった。

 結局、63式自動歩槍の量産が開始されたのは1969年にまで遅れたのだが、ここで文化大革命の煽りを受けて生産数を重視した幾つかの設計変更が行われた事で63式自動歩槍の耐久性と信頼性にケチが付く事となる。
 大きな変更点は2つ、銃身の機関部への固定方式を56式半自動歩槍と同様のネジ式から、圧入とピンを用いた方式への変更。そして、機関部の構造を56式半自動歩槍と同様の[[鍛造ブロックからの削り出し加工>削り出し加工]]から[[プレス加工]]へ変更である。
 この設計変更により銃身の固定が不十分となり射撃精度が悪化。さらに機関部の剛性も悪化した事で機関部の変形により動作不良まで発生し易くなってしまった。またこれらの設計変更とは別に[[木製ストック>銃床]]がフルオート射撃の衝撃に耐えきれず折れ易いという致命的な強度不足まで判明した。これらの事情により耐用命数は15000発から10000発に引き下げられてしまった。
 これらの問題を解決しきれなかった為、63式自動歩槍の量産は1978年に終了し56式半自動歩槍の量産が再開された。部隊に配備されていた63式自動歩槍も56式半自動歩槍で置き換えられた。

 1979年の中越戦争では、ベトナム戦争で北ベトナムへ56式冲鋒槍を大量に供与していた為に、56式半自動歩槍を主力小銃としていた中国軍が火力負けしており、フルオート可能な63式自動歩槍が再度注目されて再配備と量産が一時的ながらも再開され、その火力を発揮したのだが、[[M14>スプリングフィールド M14]]がベトナム戦争で示した通り、ベトナムの戦場で全長の長い63式自動歩槍は取り回しが悪く不評だった。
 また、この頃にはより新しい[[81式自動歩槍>突撃銃/PRC 81式自動歩槍]]の完成が間近になっていた事もあり、63式自動歩槍は第一線から退いて中国国内の民兵組織やアフガニスタンなどへの海外供与、アメリカ民間市場への輸出に回される事となった。

 63式自動歩槍そのものはこの通り残念な結果に終わってしまったが、プラスチック製マガジンが作られるという先進的な試みも行われている他、量産に関わった国営296廠はこの知見を活かして81式自動歩槍の競作に勝利しており、63式自動歩槍開発の目的の一つであった自動小銃の開発能力育成には見事に成功している。
 このように、東側国家ながら[[単なるAKの派生型>USSR AK バリエーション]]に留まらず自国の国情に見合うよう設計された63式自動歩槍は、81式自動歩槍や[[95式自動歩槍>PRC QBZ-95]]、[[03式自動歩槍>突撃銃/PRC QBZ-03]]へと発展していく中華人民共和国製独自アサルトライフルの第一歩として重要な役割を果たした。 

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|登場作品|ジャンル|使用者|備考|h
|[[Insurgency]]|−|−|項目参照|
|[[Insurgency: Sandstorm]]|−|−|項目参照|
|[[うぽって!!]]|−|−|項目参照|
|[[コール オブ デューティ ブラックオプス コールド・ウォー]]|−|−|項目参照|
|[[ドールズフロントライン]]|−|−|項目参照|

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CENTER:このページの画像は[[Wikimedia Commons>https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Rifle_Type_63.jpg]]から転載しています。
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