*三菱銀行強盗殺人事件 [#m30e7d62]

 1979年(昭和54年)1月26日に起こった日本史上最悪の銀行強盗事件。『犯人射殺』にまで至った日本ではまれなケースであり、また人質の命が奪われた初の立て篭もり事件でもあった。

 犯人・梅川昭美は飲み屋のバーテンやツケの取り立てなどで生計を立てていたが、三十を目前に新たに商売を立ち上げる。しかしまもなく行き詰まり、『もうお袋を心配させたらあかん年や』と、今度は一攫千金を目論んだ。
 同日午後2時半ごろ。梅川はミロク社製の上下2連式[[12番口径>ゲージ]][[散弾銃]]1丁と散弾実包33発を持って、大阪市住吉区万代の三菱銀行北畠支店に押し入った。
 理髪店でかけたばかりのパーマ、黒いチロル帽、黒い服、サングラスというアンバランスな格好で押し入った梅川は、散弾2発を威嚇発射し5000万円を要求。この間に、通報しようとした行員1名、駆けつけた警官2名を射殺し、死亡した警官から拳銃を奪った。
 逃走手段を用意していた梅川だったが、警察の到着を知って篭城を決意。行員31人と逃げ遅れた客8人、計39人の人質を取り立て篭もった。梅川は知らなかったが、実は店内に5人の客が隠れており、それも含めると人質は44人に上る。
 午後2時50分ごろには支店長に名乗りを上げさせ、至近距離で散弾銃を発砲し殺害。最初に撃たれた行員はしばらく息が残っていたが、梅川は冷酷にも手当を一切許さず、あげくは他の行員に、死亡を確認するため耳をそぐよう強要さえした。

 梅川は人質に見張り、あるいは狙撃を避ける『盾』となるよう強要し、女性行員には服を脱ぐように命じるなど独裁者のように振る舞い、警察の交渉には一切応じず威嚇発砲を続けた。警察はシャッターに穴を空け梅川の姿を捉えることに成功したが、梅川に気付かれて何度も塞がれてしまう。
 晩には逃走用のバンから犯人の割り出しに成功していたものの、事態は進展を見せることなく一日を終えた。

 翌朝、27日の午前4時50分ごろ、警察は現金自動預払機の陰からはっきりと内部の様子を知ることに成功。以後、梅川の様子が逐一報告されるようになり、強行突入の体制が整い始める。
 午後になって2時55分と10時10分の2回、梅川は人質の行員に借金の返済をさせた。この2回目の借金返済の際、警察は行員に接触し、突入の合図を頼んでいる。この日は差し入れと引き換えに多くの人質が解放されており、残ったのは行員25人となった。
 この間も母親による説得などが試みられたが、結局功を奏さなかった。

 一夜明けた28日、ついに大阪府警第二機動隊零中隊機動隊(後の[[SAT]]の原型となる特別狙撃班)による突入作戦を実行する事になった。突入に際し、跳弾による人質の殺傷を防ぐ為、拳銃([[ニューナンブ>ミネベア M60]])が使用された。
 午前8時42分、行員の合図で機動隊7名が銀行内に突入。油断していた梅川は咄嗟に応戦することができず、ニューナンブ6丁から発射された8発の拳銃弾うち、3発を頭、首、胸に受け、9時間後に収容先の病院で死亡した(実際にはほぼ即死に近く、生命維持装置によってかろうじて延命していた状態だった)。

 この事件の時、警察は梅川が要求した食事に睡眠薬を入れたが、味に変化が起こったので使用しなかった(実際、梅川は人質に毒見をさせていた。)。これ以降、食事に睡眠薬を混ぜる事はなくなったらしい。

 なお、梅川は猟銃の所持免許を持っており、凶器の散弾銃も正規の手続きで入手したものだった。殺人歴のある梅川に銃の所持を許したことについては、警察も批判を受けることとなった。

 また、後にこの事件をモチーフとしたセミドキュメント映画『TATTOO[刺青]あり』が制作・公開されている。タイトルの『TATTOOあり』とは、検死の際、梅川の肩に刺青があることを確認した検死官の言葉からとったものである。
----
#pcomment


トップ   新規 一覧 単語検索 最終更新   ヘルプ   最終更新のRSS