*中央工業 十一年式軽機関銃 【軽機関銃】
#ref(jp11lmg.gif,center,nolink,十一年式軽機関銃)
|モデル|全長|重量|口径|装弾数|発射速度|製造国|h
|~十一年式軽機関銃|1100mm|10.3kg|[[6.5mmx50SR>口径]]&br;([[三八式実包>口径]])|30|500発/分|日本|
|~八九式旋回機関銃&br;テ4|1165mm&br;1059mm|28.2 kg(銃架・空弾倉共)&br;9.27 kg|[[7.7mmx58SR>口径]]|100×2&br;69|1400発/分&br;730発/分|~|
 十一年式軽機関銃は、日露戦争で巧みに配置されたロシア軍の機関銃攻撃により、日本軍は機関銃を開発したが、当時の機関銃は重く移動が困難な重機関銃であったため、機関銃を歩兵と共に行動させるために新たな兵器である『[[軽機関銃]]』の開発が進められる事とり開発された。
 日本を代表する銃器設計者である[[南部 麒次郎]]により、研究・開発が進められ、様々な試行錯誤の後、1922年に完成した国産の軽機関銃で。翌1923年(大正12年)春から部隊配備された。
 この軽機関銃の特徴はその独特の給弾システムにある。当時世界で使用されていた機関銃の給弾システムは、専用の箱型弾倉や保弾板、給弾ベルトが大半で、これらの給弾システムはどれもが専用の部品が必要であった。
 しかし、十一年式軽機関銃の給弾方法は、歩兵が装備する小銃と同じ挿弾子(クリップ)を使用し銃に装填していた。
 十一年式軽機関銃本体の左側には装填架(ホッパー)と呼ばれる箱型の固定弾倉があり、その上部から中に5発の実包が束ねられた小銃用の挿弾子を入れ銃に実包を装填した。挿弾子は平置きの形で6個まで重ねることができて、最大装弾数は30発。5発を撃ち終わった挿弾子は最終弾と共に排出され、圧桿(装填架に付属するハンドルの付いた押さえ)によって次の挿弾子が装填される。射撃の途中であっても、圧桿を開けば新しい挿弾子を随時補充できる。
 つまり、軽機関銃であっても小銃と同じ補給で運用できたのである。((この開発思想は、一見して今日の分隊支援火器([[SAW]])に通ずる思想とも見えるが、この機関銃は小銃分隊に属して戦うことは考慮されておらず。独立した軽機関銃分隊に配備され、必要に応じて小隊に配属させて戦う、分隊長はおろか小隊長も軽機関銃を直接隷下に持つことはなかった。))この事は、小資源国家である日本にとって大きな利点と言え、開発者もそれを狙って小銃用の挿弾子を装填するシステムにしたと思われる。
 小銃と同じ挿弾子を使って実包を装填できるというシステムを軽機関銃に適用したのは画期的ではあったが、この独特の給弾システムは内部構造が複雑なものになり、砂塵や泥にまみれる最前線の過酷な条件下では装弾不良や故障が続出する結果になった。また実包に油を塗布する装置もあったが、その油に埃や砂が付着してしまい逆に故障を誘発する原因になる悪循環も発生した。更には、遊底の質量と実包の発生するガス圧との間のバランスが今一つ整合しきっていなかったことから、結局十一年式軽機関銃には専用の減装弾を使用することとなり、小銃弾薬との共通性は失われ、せっかくの挿弾子装弾もメリットを大いに減ずる結果となった。
 他にも銃床が銃把部に連結しているスタイルも特徴的でり、この銃把一体型の銃床は、結合部の鋲を抜いて銃床を取り外し、上下反転させた状態で再度銃本体に結合させることにより、容易に潜射銃として用いることができるように設計されていた。
 さらにこの銃床は根本から右に湾曲していてた。これは銃の左側に付く装填架の重量とのバランスをとるためと、銃の上面に塗油装置の油缶があった為に、それを避けて照星照門式照準器が右に偏って付いていたからである。
 ちなみにこの機関銃は、分隊疎開戦闘への過渡期に制式制定された軽機関銃であったため、後続軽機関銃と異なり銃剣の着剣装置はない。
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|登場作品|ジャンル|使用者|備考|h
|[[メダル オブ オナー]]|−|−|項目参照|
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