*ルフトハンザ機ハイジャック事件 [#fbab78f3]
 1972年10月29日に発生したルフトハンザドイツ航空のボーイング737機のハイジャック事件。
 スペイン、パルマ デ マリョルカ空港から飛び立ったルフトハンザドイツ航空181便(ボーイング737-200型機「ランツフート号」、乗客87名乗員4名)はフランクフルトへと向かっていたところを、カップル2組を装って搭乗していたテロリストグループ「バーダー マインホフ( Martyr Halimeh)」(殉教者ハリメ部隊。後のドイツ赤軍)とPFLP(パレスチナ解放人民戦線)のメンバー計4名がハイジャック。テロリストはシュトゥットガルトのシュタムハイム刑務所に収監されている同志11名の釈放と身代金1000万ポンドをドイツ政府に要求、果たされなければ乗客ごと同機を爆破すると伝える。
 1977年10月13日に発生したルフトハンザドイツ航空のボーイング737機のハイジャック事件。
 スペイン、パルマ デ マリョルカ空港から飛び立ったルフトハンザドイツ航空181便(ボーイング737-200型機「ランツフート号」、乗客87名乗員4名)はフランクフルトへと向かっていたところを、カップル2組を装って搭乗していたテロリストグループ「バーダー マインホフ( Martyr Halimeh)」(殉教者ハリメ部隊。後のドイツ赤軍)とPFLP(パレスチナ解放人民戦線)のメンバー計4名がハイジャック。テロリストはシュトゥットガルトのシュタムハイム刑務所に収監されている同志11名の釈放と身代金1000万ポンドをドイツ政府に要求、果たされなければ乗客ごと同機を爆破すると伝えた。
 テロリストはローマでの燃料補給から当時PFLPに対して理解を示していた中東諸国へ向かうが、各国の空港では着陸を拒否され、キプロスのラルナカ、バーレーン、アラブ首長国連邦のドバイ、南イエメンのアデンと各地の空港に着陸してはすぐに発進した。この間ドイツ大使からの交渉も失敗し、アデンでは車輪の検査で外に出たものの、ハイジャック犯が呼び戻そうと何度も叫んでもなかなか戻らなかった同機の機長がテロリストのリーダーに射殺された。(すぐに戻らなかった理由は不明だが、イエメンの当局者に機内に取り付けられていたセムテックス(高性能プラスチック爆薬の一種)の位置を通報していた模様。)

 そこでドイツ政府は特殊部隊である[[GSG9]]の派遣を決定。10月17日、ソマリアのモガディシュ空港に着陸させたところを犯人に要求を飲むと偽り、テロリスト側の交渉の期限である18日午前2時45分までの突入準備を急いだ。そして18日午前2時、陽動として滑走路上で焚かれた巨大な火に犯人たちが気を取られた隙を突き、[[MP5サブマシンガン>HK MP5]]で武装したGSG9は胴体下と主翼上の非常脱出口から突入を敢行、犯人3名の射殺と1名を逮捕。残りの人質全員の救出を成功させた。なお、この突入時にはSAS隊員によりスタングレネードが実戦初使用され、その威力を発揮した。
 そこでドイツ政府は特殊部隊である[[GSG9]]の派遣を決定。10月17日、ソマリアのモガディシュ空港に着陸させたところを犯人に要求を呑むと偽り、テロリスト側の交渉の期限である18日午前2時45分までの突入準備を急いだ。そして18日午前2時、陽動として滑走路上で焚かれた巨大な火に犯人たちが気を取られた隙を突き、[[サイレンサー>減音器]]付きの[[MP5サブマシンガン>短機関銃/HK MP5]]で武装したGSG9は胴体下と主翼上の非常脱出口から突入を敢行、犯人3名の射殺と1名を逮捕。残りの人質全員の救出を成功させた。ちなみに、このとき初めて閃光手榴弾が使用された、と言われているが、実際にはイギリス[[SAS]]の支援要員が持って来た閃光手榴弾は火災の危険があるとして空港に持ち込む際に押収されており、作戦実行時には使用されなかった。

 1972年10月29日に発生したルフトハンザ機ハイジャック事件を指すこともあるが、あちらは旧西ドイツ政府がテロリストの要求を鵜呑みにして大きな非難を浴びている。その意味においては1977年のルフトハンザ機ハイジャック事件はドイツ政府にとって国の威信をかけた報復戦だったとも言える。
 1972年10月29日に発生したルフトハンザ機615便ハイジャック事件を指すこともあるが、あちらは旧西ドイツ政府がテロリストの要求を呑んで[[ミュンヘンオリンピック事件]]の容疑者三名を釈放したことで大きな非難を浴びている。その意味においては1977年のルフトハンザ機ハイジャック事件はドイツ政府にとって国の威信をかけた報復戦だったとも言える。

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