*スプリングフィールド・アーモリー / Springfield Armory[#a4ccda67]

 「スプリングフィールド」には、かつて存在したアメリカ国営の''スプリングフィールド・アーモリー(造兵廠)''と、民間にブランドが売却された後のアメリカの民間企業''スプリングフィールド・アーモリーInc''がある。
 上記の2社は法人的には関係のない別会社なので、ただ単にスプリングフィールドと書いてある場合は注意が必要である(さらに付け加えるならば、スプリングフィールドは英語圏でありふれた地名である)。
 この項では双方とも記述する。
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**スプリングフィールド造兵廠(Springfield Armory)
 スプリングフィールド造兵廠は米・マサチューセッツ州スプリングフィールド市にかつて存在していた、国営の軍用火器生産施設。
 3つの川と4つの大通りに面した軍事的要地で、内地の戦場に兵器を輸送するのに適した立地であった。後のアメリカ合衆国初代大統領ジョージ・ワシントンがこの地を重要な拠点として確保した後、愛国者集団により「スプリングフィールド兵器庫(Springfield Arsenal)」が設立される。ここで弾薬と砲架を生産、及び他のあらゆる軍用品の貯蔵と輸送が行われ、この施設はアメリカ独立戦争の要を担う重要な施設となっていった。
 スプリングフィールド造兵廠は米・マサチューセッツ州スプリングフィールド市にかつて存在していた、国営の軍用品生産施設。
 3つの川と4つの大通りに面した軍事的要地で、内地の戦場に兵器を輸送するのに適した立地であった。後のアメリカ合衆国初代大統領ジョージ・ワシントンがこの地を重要な拠点として確保した後、1777年に愛国者集団により「スプリングフィールド兵器庫(Springfield Arsenal)」が設立される。ここで弾薬と砲架を生産、及び他のあらゆる軍用品の貯蔵と輸送が行われ、この施設はアメリカ独立戦争の要を担う重要な施設となっていった。
 やがて、この施設で[[小銃]]などの生産も行われるようになると、ジョージ・ワシントンは自軍の著名なガンスミス、ジョン・エイムズ大尉の息子であるデーヴィド・エイムズを初代監督に任命。その品質の向上に努めるよう指示した。

 1787年には反乱軍によって襲撃されるも、備蓄されたぶどう弾と砲によりこれを撃退し、1890年の南北戦争の最中には、古い砲を鋳潰して敷地全体を覆う巨大なフェンスを建造したなどの逸話も知られている。こうしたエピソードは、後述のブランドを継承した民間メーカーで生産されている[[AR15>コルト AR15A2]]クローン「セイント(守護聖人)」の名称の由来ともなっている。
 1787年には反乱軍によって襲撃されるも、備蓄されたぶどう弾と砲によりこれを撃退し、1890年の南北戦争の最中には、古い砲を鋳潰して敷地全体を覆う巨大なフェンスを建造するなど、単なる生産施設に留まらず城砦としても高い能力を有していたことが知られている((同時代にもう一つ存在した北軍のハーパーズ・フェリー造兵廠は南軍の攻撃により壊滅している。))。こうしたエピソードは、後述のブランドを継承した民間メーカーで生産されている[[AR15>コルト AR15A2]]クローン「セイント(守護聖人)」の名称の由来ともなっている。

 1793年には重・小火器関係の様々な生産施設が統合され、野砲、砲弾や銃弾、剣などの生産も行われるようになり、「国営兵器庫(National Arsenal)」、または「Springfield Armory(スプリングフィールド造兵廠)」と呼ばれるようになった。この影響で、スプリングフィールド市では銃火器関係の研究・開発が盛んに行われ、アメリカ各地からガンスミスなどが多く集まるようになった。この地でライフル[[ストック]]を大量生産するための専用の旋盤といった、大量生産のための優れた技術が発明され、スプリングフィールド造兵廠の生産能力は飛躍的に高まっていった。

 この時期、アメリカの有名な反戦派の詩人ロックフェローがこの工場を訪れているが、100万挺ものライフルが整然と立て掛けられて保管されているさまを「巨大なオルガンのようだ」と珍しくその美しさを讃えている。

 その後、南北戦争や二度の世界大戦などを通してM1863 ライフルマスケット銃や[[M1892>小銃/クラッグ・ヨルゲンセン銃]]、[[M1903>小銃/スプリングフィールド M1903]]、[[M1ガーランド>スプリングフィールド M1]]、[[M14>スプリングフィールド M14]]といった米軍の歴代制式小銃を一貫して生産・供給し続けた。
 第二次大戦中には自社のライン生産だけでは需要に対応出来なかった[[コルト]]社からの委託を受けて、オリジナルの[[M1911>コルト ガバメント]]専用スライドや各種の部品を製造していたこともある。

 こうした多くの実績を残したものの、ベトナム戦争時代に差し掛かる頃には、生産技術の限界からかつてのような最先端の軍需施設として運営し続けることは難しくなっていた。最終的に、当時の国防長官ロバート・マクナマラの決定により閉鎖が決定。外周の敷地は売却され、主要な施設・敷地・建物は記念公園及び博物館として残された。
 こうした多くの実績を残したものの、ベトナム戦争時代に差し掛かる頃には、生産技術の限界からかつてのような最先端の軍需施設として運営し続けることは難しくなっていた。最終的に、当時の国防長官ロバート・マクナマラにより閉鎖が決定。外周の敷地は売却され、主要な施設・敷地・建物は記念公園及び博物館として残された。


***自動拳銃 [#r85e26a8]
[[スプリングフィールド M1911A1>コルト ガバメント]]

***小銃 [#g274704e]
[[スプリングフィールド M1865>小銃/スプリングフィールド M1865]]
[[スプリングフィールド M1870&br;スプリングフィールド M1871>小銃/レミントン ローリングブロック銃]]
[[スプリングフィールド M1892>小銃/クラッグ・ヨルゲンセン銃]]
[[スプリングフィールド M1903>小銃/スプリングフィールド M1903]]

***自動小銃 [#z3c5c935]
[[スプリングフィールド M1]]
[[スプリングフィールド M14]]
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**スプリングフィールド・アーモリーInc(Springfield Armory,Inc.) 

 1974年にロバート・リース(Robert Reese)が設立した銃器メーカー。
 前述のスプリングフィールド造兵廠の閉鎖後、 M14の設計図を買い取り民間向けモデル「M1A」の生産・販売で成功したテキサス州の銃器メーカー・LHマニュファクチャリング社を買い取って、同社のブランド「スプリングフィールド・アーモリー」を継承した。社屋は米イリノイ州・ゲネセオ(Geneseo)にある。

 コルト社のM1911に関するパテントが失効した90年代の半ばからは、TRP、FBIビューローモデルなど、高性能なM1911系カスタムで知られるようになり、現在はカスタムショップとして評価が高い。
 コルト社のM1911に関するパテントが失効した90年代の半ばからは、TRP、FBIビューローモデルなど、高性能なM1911系クローンモデルの販売を開始。これらの製品が高い評価を得て、[[自動拳銃]]市場においても大きな存在感を持つ銃火器メーカーとなった。
 近年では、クロアチアのHSプロダクト社から「HS2000」という[[ポリマーフレーム]][[オート>自動拳銃]]を、[[XD>スプリングフィールドXD]]の名称でOEM販売した。これが非常に好調なセールスを記録し、2009年には改良を加えたXDMモデルを発表。現在では同社の主力製品の一つとなっている。

***自動拳銃 [#w24f43v4]
[[スプリングフィールド M1911A1]]
[[スプリングフィールドXD]]
***自動小銃 [#z4d7f915]
[[スプリングフィールド M1A>スプリングフィールド M14]](M14の民生型)
***突撃銃[#f7fbef80]
[[スプリングフィールド SAINT>コルト AR15]](AR15クローン)

**外部リンク [#uf12dfea]
・[[Springfield Armory,Inc.公式サイト>http://www.springfield-armory.com/]]
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