*カルロス・ノーマン・ハスコックII世&br;Carlos Norman Hathcock II (1942〜1999) [#c2fa2af4]
 1960年代のベトナム戦争において活躍した「ホワイト フェザー」という異名を持つアメリカ合衆国海兵隊のスナイパーである。
 ハスコックは幼少からの夢だった海兵隊に17歳で入隊、そこで狙撃の腕を見出され、訓練に明け暮れる内に1965年に行われたライフル競技大会、「ウィンブルドン・カップ」にて優勝を果たした。
 その年にハスコックはベトナム戦争に参加。
 愛銃の[[レミントン M700]]と共にその腕を存分に振るうことになる。
 ハスコックの公式戦果は93名でベトナム戦争に置いては第三位である。
 にもかかわらず、彼が有名なのは彼が行った狙撃任務の困難さが大きく関わっている。
 有名なエピソードとしては

 ・北ベトナム軍将校狙撃任務の際、標的に接近するために単身、ジャングルの中を1km以上も匍匐前進で三日かけて接近。狙撃を成功させた。
 ・象の谷と呼ばれる場所において友軍を包囲しつつあった北ベトナム軍歩兵中隊を観測手とたった2人で向かえ撃つ。この際、相手の将校や通信士を狙うことで相手の組織行動を崩壊させる戦法を取ったことで5日間も戦い抜き、味方への損害を防いだ(エレファントバレーの戦い)。
 ・北ベトナム軍がハスコック抹殺のために送り込んだ12人のスナイパーの一人と一対一の狙撃戦を展開、見事相手を倒した。
 ・谷の向こうの長距離に陣取るベトナム軍歩兵部隊に対し[[M2重機関銃>ブラウニング M2]]にスコープを装着して狙撃を行うことを提案し実行。2300mという長距離狙撃を成功させた。
 
 特にM2重機関銃を用いた狙撃のエピソードが軍関係者に与えた影響は大きく、[[フォークランド紛争]]においてアルゼンチン軍が同様の戦法をとってイギリス軍に打撃を与えたほか、対物狙撃銃が開発される契機ともなった。
 なお、ハスコックが「ホワイト フェザー」の異名を持ったのは愛用のベレー帽に白い羽根をつけていたことからで、これは彼自身がスナイパーに必要な「臆病さ(チキン)」を現すために皮肉ってトレードマークとしたものと言われている。
 数々の困難な作戦を見事成功させてきたハスコックであったが69年に対戦車地雷を踏んで爆発炎上した装甲車の中から戦友たちを救助するために火に飛び込み、7人を救助することに成功するも自身は全身火傷という重傷を負ってしまう。
 この負傷が原因でハスコックは前線を退き、教官としての道を歩むことになる。
 ハスコックは軍においてのスナイパーの運用に対して大きく影響を与えた人物であり、カウンタースナイプなど、現在のミリタリースナイパーの運用を確立させた。
 1979年にハスコックは軍を退役したがその後も狙撃のアドバイスなどを軍関係者向けに行うなどして活躍し、1999年、56歳で家族に看取られながらこの世を去った。
 
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